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ステバキ
AOU後AUです。
08:12 PM
落ち着いたとは言い難く、どんな顔をしてバッキーに会いに行けばいいかわからないまま、コロシアムを出て敷地内を三週ほど走った。シャワーを浴びて、何人かと会話を交わし、いい加減夜も遅くなると思ったところで、バッキーの方から迎えに来てくれた。
何だか僕はいつもこんな形ばっかりだ、と呟くと、バッキーは「光栄だな」といまいちよくわからない答えを返した。
「……おまえを迎えに行く役目だぞ?光栄だろ」
その口ぶりが自分のよく知るバッキーそのものだったので、スティーブは顔を俯けながらも、頬のあたりの緊張を緩めた。ヨーロッパ戦線の宿営地ではよくこんな風に言っていた。
車を出してくれると言うのでドライバーに任せて、自宅に戻る。特別待遇はあまり好きではない、とは思うのだけれどこういう時は助かる。
ドライバーの存在が「無言の時間の長さ」を自然にしてくれるからだ。
道はさほど混んでいなかったので、タワーに戻ってきたのは出発して一時間を過ぎた頃だった。
「夕飯はこないだのラザニアでいいか?」
「あ、ああ」
あまりにもバッキーの態度が普通だ。それが彼の言った演技なのか試験なのか、今のスティーブにはわからなかったが、時間が必要だと彼が言ったのを受け入れ、頭を冷やしたいと言ったのも自分だ。
「……食べたいものがあるなら言えよ?」
「あ、ええと……、クリームチキンのキャセロールが……」
材料は多分あったと思う、とぼそぼそとした声で続けると、バッキーは目を細める。
「ん?」
「作って下さい、だろ」
「そうだ、うん。作って下さい……僕も手伝う、から」
駄目だ。
そこまでの会話を何とかやりきった、そう思ったところでスティーブは耐えきれずその場で頭を抱えてしゃがみこんでしまった。
一人で目を覚まし、現代の生活に慣れようと努力している間、何度も夢見てきた風景だ。
もうこの世界のどこにもいないバッキーとの穏やかな日常。
犬を飼ったらどうだろうだとか。
バカンスなんていうものが今は存在していて、旅行に行ったりするものなのだと知った時には世界地図を広げてみたりもした。
今朝は一つの場所も差し示せなかったのに、バッキーが生きているはずがないと思っていたのに、あの頃は夢を見ていた。
「……言いくるめるなよ、バッキー」
すぐに声をかけてくれようとするバッキーを制するために口にした言葉は思いのほか酷いものになる。しかしバッキーは怒り出すこともなく、ため息をつくこともなかった。
「了解」
短くそれだけを言って、すぐ横に座ったようだった。フローリングの床は冷たくはなかったが、座るようなところではない。
それでも気にした様子はないのか、かすかに感じる呼吸は穏やかだった。
「君がいない時に見た夢を思いだしたんだ……」
そうか、と穏やかな肯定。スティーブはゆっくりと手を下ろし、顔を上げる。深呼吸を三度、それからバッキーの足元に視線を動かした。
「叶わないと知っている夢は……鮮やかなんだよ……」
それで喪失感を埋めていたのかも知れない。希望のために描いた夢ではなかったから。
でも、今は。
「もうそんな夢を見ることはできない……」
バッキーは少し足を動かして、靴先をスティーブのそれにコツンと当てた。それは相づちのようであり、続けてという催促のようにも思えた。言いくるめるな、というオーダーはそのまま通してくれるらしい。
スティーブはふうっともう一度深い息をついて、今度は上を見る。スモーキーなガラス板の奥のシーリングライトは柔らかい日差しには遠いけど、少し心を落ち着かせてくれた。
「君が戻ってきてからずっと、あの日に……ブルックリンに帰りたいと思っていて……」
スティーブは頭をゆるく振って、
「こんなのは僕じゃないみたいだろう……?」
と、自嘲含みに笑った。
「……そうだな」
でも、とバッキーはこちらを覗き込むようにして、気持ちはわかるぞ、と頷いてくれた。
「俺はな、スティーブ。昔からずっと……そんなことを考えていたんだ」
「え……?」
バッキーは少し顔を上げ、遠くに目線をやって、深く息を吐いた。
それから、これは、俺の記憶だなと言って目を細める。
「おまえが戦場に来ないように、祈ってたんだ。戦地を映す映画だって見て欲しくなかった」
青い空と、時折の冷たい雨と、それでも火薬のにおいのない美しい世界に住んでいて欲しかった。
「バッキー……」
「……今のおまえと、似てるだろう?」
スティーブは頷かないわけにはいかなかった。彼の実力を知っていながら、任務中に彼の無事を気にかけてしまう。顔をうつむけてフードをかぶって歩く姿に、彼が屈託なく過ごせる場所があればいいのにと願った。
かつて、戦地へ行くことに焦がれていた自分にバッキーが同じことを思っていたなんて、知らなかった。
「……俺は昔から演技が上手いからな」
嘘付きだ、とは思わなかった。今なら、わかる。彼はその優しさを尽くして自分を守ってくれていたことを。プライドばかりが高く扱いづらい自分を、彼はけして傷付けなかった。
「……正直、やっぱり今の……俺には人並みに生きる権利はないと思っている。だけど、そうだな、おまえを幸せにしてやりたいとは心から願ってるんだ……」
おまえが生きていて、また会えて良かった。
そういうバッキーの声に、自棄になったような響きも押し殺したような諦念も感じなかった。
スティーブは膝で床を歩くようにして、彼の正面に向き直った。
それから、手を取り、ぎゅっと握り締める。
痛いぞ、という抗議の眼差しには首を横に振る。そして、続けてとゆっくりと瞬きを二回、繰り返した。
バッキーは参ったな、と呟くと、意を決したように視線をまっすぐ、スティーブの青い目に向けた。
「今こそ自由に……幸せになって欲しい。これが俺の願いなんだ……」
その定義はおまえに任せるが、と続ける。
「そのためなら、俺は何でもできる……」
目の周りが真っ赤に染まっている。涙をぐっと堪えているのだろう、視線は鋭さを増している。
その強い眼差しは、スティーブを貫くようだった。息ができないぐらいに苦しいのに、逸らすことができない。
「バッキー、君は……」
「悪くない、洗脳されていたからだ……。それは理屈としては通るが感情はそうもいかない。いいんだ、そのことは、俺なりに少しずつ折り合いをつけていく。でもな、スティーブ」
いつもより早口になったバッキーにスティーブは大丈夫だ、と頷く。
聞いている。
言いくるめられるつもりもない。
ただ、ようやくバッキーの本当の声が聞けた気がして、そのことはとても嬉しいと思えた。
「おまえはどうしたい……?」
そこで、バッキーの頬には一筋の涙が伝って、顎先から落ちた。まるでスローモーションだ。彼が再開後、どれだけ自分を責めていても涙を流すことはなかったから。
ああ、やっぱり。
彼はバッキーだ!幼馴染みの親友、そして今この世で一番、スティーブが大切だと想う相手。
それが、彼だ。
「……僕は君に……バッキーに幸せになって欲しい。いや、幸せにしたい」
バッキーは何か言いかけたがすぐに口を閉じ、それから参ったな、と繰り返した。
「それから、僕に……君を愛させて欲しいんだ。これが、僕の……願いだよ」
心を閉ざさないで、目を逸らさないで。
ただ、僕は君を愛していたいんだ。
「……スティーブ」
バッキーがゆるゆると瞬きをするたびに、頬は濡れる。
でも彼の口元は唇を歯先で傷付けることもなく、奥歯を噛みしめることもなく、ふわりと緩み、微笑んでくれていた。
見間違えや気のせいなんかではない。
「……それなら取引するしかないな」
そして、ようやく出した結論がこれだ。バッキーはそう言って、深い息をついた。そこに、絶望のにおいはしなかった。
「……お互いの幸せを願うんだ……」
「……バッキー」
「詭弁だと言って笑うか?」
「まさか」
スティーブは目を見開いてそう言うと、さらに手を握る力を強くする。
「名案だと言ってくれよ、スティーブ……」
バッキーは声を涙に濡らして、こちらをすがるように見た。そんな顔をする彼を見るのは初めてだった。そうだ、何もかも知り尽くしたと思っていても、そうとは限らないのだ。
今も、これからも新しいバッキーを知っていく。彼が自分を不確かな存在だと言うのなら、これからの時間のバッキーは自分が見届けることができる。
誰にも介在させない。
彼自身が選んだ道を進むだけだ。
「ああ、名案だよ、バッキー」
スティーブはにっこり笑って、手の甲に唇をそっと押し当てた。
「キスは……全部で七回だった」
「……それも、舌を入れてないやつな?」
スティーブはそれでも「何回ものキス」だと思っていたし、その時々が大切な忘れがたい瞬間だった。緊張で棒立ちでいるばかりだったけれど。
バッキーはもっとずっとたくさんのキスを知っていたのだろうのはわかっていた。しかし、一度も馬鹿にするようなことはなかった。
多分。
あの目を細めて、こちらを見る時は……。
「それ……」
その顔だ、とスティーブは呟く。バッキーは昔と変わらぬ、ぐっと目を細めて甘さを含んだ視線をスティーブに向け、あごを少し上げてキスを待ってくれた。
唇を押し当てて、少しだけついばむ。
そんなキスを、彼は笑わない。胸が破れそうなほど高鳴っているのに気がついても、そこに手の平をそっと押し当ててくれる。
今日も、そうだ。
「……僕を臆病だと思うか?」
先延ばしにしたくないという気持ちはある。心も体も、これ以上なく彼を求めている。
だけれど、彼は今、自分自身が不確かだと苦しんでいるのだ。
スティーブを受け入れることを迷いの中で、自己否定の材料にして欲しくない。
「いや、正直……そういうおまえが好きなんだって……確信できた。こんなこと、洗脳じゃ教えてくれないからな」
ジョークにできるぐらいが丁度良い、それこそバッキーらしさ、だ。スティーブは二度大きく頷いて、悪戯っぽく笑ってくれたバッキーの頬に、唇を押し当てる。
大好きだ。
愛している。
君を、誰よりも愛している。
「時間は、あるから……」
「そうだな」
スティーブはバッキーの体を引き寄せるようにして、その背に腕を回す。そして、強く抱きしめて、こう耳元で囁いた。
「……僕を幸せにできるのは、君だけだ……」
バッキーはすぐに返事を寄越さなかった。声が震えてしまうのを恐れているのかもしれない。
それでも、肩口に涙が吸い込まれていくのがわかる。
小刻みに震える体も、力強く抱きしめる。彼を覆っていた強がりや、恐れ、諦念、絶望が少しずつほどけていくような気がした。
これは自惚れかな?
言葉のかわりに、受け取っても良いだろうか?
「……大好きだ……」
ついに顔を上げたバッキーのその声は、怒ったようにも聞こえた。涙に濡れた声をごまかしたかったのだろう。
スティーブはふわりと微笑んで、僕もだ、と繰り返した。
彼が、自身のすべてを呪うのならば。
片端からその呪いを解いてまわればいい。
「僕もだ……」
スティーブはそう繰り返した、今日の分の呪いを解くべく、額に唇を押し当てた。心からの愛情と友情と尊敬と、それから祈りをこめて。
どうか、悲しみと後悔の海に溺れないで、と。