Act.04
ステバキ
AOU後AUです。
1:15 PM
最後は軽く駆け足になっていた。
ようやく大学キャンパスから抜け出せた、と言ってしまうのはチョ博士の厚意をむげにするようで申し訳なかったが、今の自分とワンダにとって、ここはあまりにも眩し過ぎた。
世界各地から集まった、頭脳明晰な学生達。世界を変えてやろう、明日を作ってやろう、そんな気概に満ちた少年少女達の目の光は、まるで避けようがない散弾のようにこちらに降り注ぐ。
彼等にそんな気がなくても、だ。
「疲れた……」
黒いフーディーにジーンズの裾を折り返し、編み上げのブーツを履いているバッキーと、長い赤毛をポニーテールにしてキャメルのブルゾンにウォッシュデニムのタイトスカート、白いスニーカーのワンダとは、まだ学生の恋人を迎えに大学までやってきた、そういうシチュエーションにしか見えなかった。
どちらの服もナターシャの見立てだったが、ワンダは初めから不安そうだった。バッキーはよく似合っていると声をかけた。もちろん、お世辞などではなく。
彼女の美しさと若さにとても合っている、と心から思った。もし、彼女が悲劇を知らずにいたとしたら、こんな風な格好でアメリカに留学生としてやってきていたかもしれない。
それは口にはできなかったが、バッキーがもう一度まっすぐに目を見て、似合っているよ、と繰り返すと少し気分を持ち直したのか、少しだけ顔を上げて歩いてくれた。
それでも、やはり外は眩し過ぎたのだけれど。
次はサングラスをかけていくべきかもしれない。
「ああ……」
少しの距離を歩いた二人は、アムステルダム・アベニューから少し道を逸れ、奥まったところにあったこぢんまりとしたカフェに入った。流行っていないわけでもないが、混んでもいない。おしゃべりを楽しむ客が多い店のようだ。
新しい客が入っていっても、顔を上げてこちらを見たのは店員だけだった。
「一緒に来てくれて助かったよ」
バッキーがそう言うと、ワンダが「私こそ」と言って小さく笑う。あまり一人ではいたくないの、と続けられた言葉にバッキーは頷き、そうだな、と相づちを返す。
それは同意というより、肯定だ。
「ヘレンはずいぶん強く勧めてたね、その……」
「人工皮膚か?」
「そう……」
鈍色の腕を今はフーディーの袖と手袋の下に隠しているが、これは兵器だ。ただの、腕の代わりとはわけが違う。
それを重々承知していて、バッキーが記憶を失っていた間に何をしてきたかも知っているはずなのに、
「戦っていない時間の方がずっと長いのだから」
チョ博士はそう繰り返した。善人だから、親切心からそう言っているのか、それとも誰かに言わされているのかはわからなかったが、その言葉が上滑りのように聞こえなかったのは、彼女の表情が思いのほか真剣だったからだろう。
彼女自身、恐ろしいことに加担しかけたという強い罪悪感があったとしても、だ。
「……勧めはありがたいが、俺には……」
と、そこでバッキーは一度言葉を切り、店員に合図を送る。ワンダを促すと、彼女は遠慮を見せた。
何でもいいの、という姿勢は年頃の娘らしくない。バッキーも40年代の少女の好むものならばよくわかっていたものだけれど、今はスティーブをからかうこともできないぐらいの疎さだ。
それでも周囲を見回して、いくつかの注文をして、店員のレコメンドを一品追加してくれと頼んだ。
ぎこちないデートにでも見えたのだろう、そばかすの愛らしい三つ編みの少女は得意げに片目をつむって見せた。
「……俺達は似た者同士だな……」
ふうっと大きく息をついたバッキーに、ワンダが頬杖をついたまま、こくりと頷いた。
「……人間みたいな腕なんか、いらない……」
ぽつりと呟いたバッキーの声は、周囲のかしましいおしゃべりにかき消されるほどに細かった。しかし、今の時点での紛れもない、本音なのだ。
人間には、戻れない。
そう言った方がいいのかもしれない。
「そんな幸福が存在したら、駄目だと思ってしまうんだ……」
ワンダはテーブルに運ばれてきたクランベリージュースを目を細めて眺め、それから「わかるわ……」と続けた。
サーモンとアボカドのサラダ、ふわふわのチーズオムレツ、パストラミのサンドイッチに、バターとキャラメルのかかったワッフル、苺たっぷりのトライフル。
あっという間にテーブルいっぱいに並べられたご馳走に、ワンダは目を細める。周りの少女達と同じように、モバイルを構えて写真を撮るわけでもなく、ただただじっと慈しむように見つめていた。
弟に食べさせてあげたかったな、とソコヴィアの言葉をつむぎ、とても美味しそうとささやかだけれど微笑んで見せた。
『こんなに美味しいものを食べても許されるのかなとか……』
ワンダはフォークを手にして、エンジョイと笑顔を向ける店員に頷いて、食事を始める。バッキーもそれに続き、サンドイッチにかぶりついた。
『楽しくおしゃべりをして、笑ってもいいのかなとか……すぐ考えちゃうの』
ワンダはオムレツの柔らかさに少し目を大きくして、それから頬を少しだけ緩めた。
『でも、それでも……許してくれる人がいるから……』
ありがたくて、辛い。
バッキーも同じ気持ちだよ、と目を合わせて頷くしかできなかった。
彼等もすべてを肯定する無責任さで言うのではないことはわかっている。全面的な信頼という感情の話ではなく、技術や医療の分野で考えての判断を優先してくれている。
だけれど、まだバッキーは自分の記憶だとか、感情、感覚すべてが「元通り」とは思えないのだ。そして、元通りにはならないことも、よく知っている。
この左腕が、その象徴のようなものだ。
『でも、俺はワンダが笑っていると嬉しいよ』
頬や首筋を出して、前を向いて歩いて欲しい。
涙が止まらない夜は話を聞いてあげるから、朝には笑って冷たいオレンジジュースを飲み干して欲しい。ミルクでもいい、何でも好きなものをだ。
妹が成長する姿を見届ける事が出来なかったから、余計にそんな風に思うのかもしれない。
彼女が、今も生きているのかどうかはわからない。
会いたい気持ちはあるが、この出征した時とほとんど変わっていない顔で、何が言えるだろうか。とても無理だ。
それに、とうの昔に自分は死人になっている。
どこかにあるだろう墓標の下には空っぽの棺が埋まっているのだ。
『私だって、そう』
少し俯き加減になったバッキーの顔を下から覗き込むようにして、ワンダは懸命に笑みを作って見せた。
『ありがとう、ワンダ』
そうだな、とバッキーはもう一度深く息をついて、少しだけ昨日より、今朝よりもほんの少しだけ前を向いて見るのもいいかも知れない。
作り笑いも、意味のないことではない。単純に演技をしているわけでもない。
大切な人を安心させる手段として、それから、少しだけ自分に許しを与えるためのものなのだ。
おそらくは。
バッキーは少しずつ、自分との対話を続ける。
『まずはそこからはじめようか』
許しの言葉を信じることと、贖罪を尽くすのとはまた別の話だと、皆が言う。
『うん』
かりかりの縁にバターの染みたワッフルを美味しいと思うのは、悪いことではない。
髪飾りが太陽の光を浴びてきらめいたって、構わない。
一生忘れられない悲しみと罪悪感に寄り添って生き長らえるのか、どうか。バッキーは戻ってからずっと自問し続けていた。
ワンダのことなら、それは間違いだと言えるのに。
こと、自分の後悔となると上手く行かないのだ。
「……難しいな……」
早々弱音を吐いたバッキーだったが、ワンダは肩をすくめるだけだ。
二人とも、同じだ。すぐにすぐ、スイッチを切り替えるようにできれば、今までここまで思い悩んでいない。
ただ、それでもすべてから身を隠し、耳を塞いでしまうには、仲間達が愛し過ぎるのだ。
「バッキーが一番に望むことは何?」
ワンダはトライフルに手を伸ばし、一番上に乗った苺をすくい取る。そして、それを味わいながらバッキーの返事を待った。
するりと、確信を突くのは昔から「少女」の魔法と決まっている。
大人はこんな時、言葉を失い、少しだけ呼吸を止めてしまうのだ。
「……俺の……?」
「そうよ」
今のワンダは「罪と罰」の話をしているのではない。
もっと根本的な話を、彼女にとって「弟」がそうであったように、もっと小さな、それでいて強固な縄張りの話をしているのだ。
「……俺が望むのは……」
バッキーはそこで一度言葉を切って、すっかりぬるくなってしまったコーヒーを半分ぐらい一気に飲み干す。
「スティーブに、自由を……」
そして、そこまでしか声に出すことができなかった。ワンダは「大丈夫」と言ってマグカップを握ったままのバッキーの手の甲を指先でさすった。
「……その自由を、彼が欲しがるかしら?」
そして、投げかけられた疑問に、バッキーは「わからない」と答えるしかなかった。
「……もう少し、考えるよ……」
「そうしてあげて」
ワンダは今度は作り笑いではなく、ふわりと微笑み、目を細めてバッキーを見つめた。
「二度と会えないと思っていた相手に会えた気持ちを、忘れないでね」
「ああ……そうだ、そうだな……」
ワンダの言葉に当てこすりの響きはなかった。
彼女もまた、愛しい仲間の一人なのだ。バッキーはそれこそ、目を覚ました後のスティーブが作り上げた世界だということに、今更ながらに気がついた。
この温もりも優しさも、真剣なサポートもすべて、スティーブが過ごした数年で築いたものだ。
「……とても、とても……嬉しかったよ……」
後悔や、自己嫌悪に、憎しみ。
ジェームズ・ブキャナン・バーンズとして、意識を取り戻した時に、感じた感情はそのどれでもなかった。
ただ、ただ、感謝した。
この世界に、スティーブが存在しているということに。
また、彼の声で名前を呼んでもらえたということに。
この感情を最近は少し遠ざけようとしていたのかもしれない。
「いつか伝えられるといいね……」
「ああ、そうだな……」
古風な男、らしく手紙にするのもいいかも、と提案してくれたワンダは、パンケーキも頼んでいい?と小首をかしげた。
「もちろん」
バッキーは鷹揚に頷き、今日の話は二人の秘密だ、と笑った。
たぶん、これは。
作り笑いではない。
「じゃあ、口止め料ね?」
「そうさ」
それじゃ、遠慮なく。
ワンダの目線がオープンキッチンの方へ移ったのを見届け、バッキーは表情を緩めた。
あの日の喜びがじわじわと胸の奥を温めてくれたものだから。
絶望の淵に立たされて、ただそのことだけが。
一筋の光のように、思えたのだ。