Act.01
ステバキ
AOU後AUです。
連載終了後、オフ本として出版する予定です。
05:38 AM
夜はまだ少し、空の片隅に残っている。
風は冷たかったが、走り込んだ後の少し火照った肌には心地良かった。
新しく下ろした靴も、羽のように軽い。
こんなことでも、すぐに昔を思いだしてしまう。
まだ十年も経っていないのだ、彼にとっては。
昨日みたいなものだ。
「また反省文だな……!」
トリスケリオン崩壊後、キャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャースはその居住をニューヨーク、グランドセントラル駅すぐ近くのアベンジャーズタワーに移した。
それ以後、機能的で豊かな暮らしとなったが彼の自由はずいぶんと制限されてしまった。
当然、ランニングで外を自由に走ることはできなくなり、タワー内のジム、もしくはニュージャージー郊外にある、アベンジャーズの管理下に置かれる訓練施設、及び倉庫などがある敷地の中でのみ許されるようになった。
自分が勝手をすると、周囲に迷惑がかかってしまうことは理解していたので、無理を言って外を走るようなこともなく、周囲の人間達は、スティーブがこの生活に順応しているかのように見えただろう。
ただ、今は違う。
彼が帰ってきたのだ。
「書くのは僕達じゃない。ずさんなセキュリティを作った人間が書くべきだ」
バッキーこと、ジェームズ・ブキャナン・バーンズ。
彼はスティーブの親友であり、スティーブの命を執拗に狙った暗殺者ウィンターソルジャーでもあった。
ヒドラにその肉体を改造、洗脳された彼こそがヘリキャリアから湖に落ちたスティーブを救ったのだ。しかし、彼はスティーブが意識を取り戻すよりも先に、その姿をくらましてしまった。
それからどれだけの時間を費やして彼を探したことだろう。
書類、記録、監視カメラの映像、取り寄せられるものはすべて取り寄せた。二、三日眠らずとも生きていけるせいで、寝食を忘れて没頭することも多かった。それでも手がかりはなく、焦燥と絶望と諦念がスティーブの内面に渦巻き、いつしか笑顔も減っていった。
暗闇の中でもがくばかりの悪夢も幾晩見たことだろう。眠らずにいたのも、目を覚ました時の喪失感から逃れるためだったとも言える。
自分がもし、ごく普通の兵士Aの立場なら、すぐにカウンセラーの元に送り届けられていたことだろう。昔々と違って、今はそういう手段があるのだ。完璧な対策ではないとは言え、良いことだ。
そうでないと、スティーブのように大きな戦いに身を投じることを、生き続ける価値に置き換えて日々を過ごすことになる。それは彼自身、自覚のある症状だ。
そんな中、突然。
彼は姿を現したのだ。
それはあまりに不意の出来事で、スティーブは状況を受け入れるのにしばらくの時間を要した。目の前に立っている男をバッキーだと認識することが難しかったわけではない。
その姿を見た瞬間に、彼だとわかった。
ただ、彼が、バッキーが。
一番初めに頼った相手が自分ではなかったということに、衝撃を受けてしまったのだ。ありえないという怒りさえ沸いてきた。
自分自身が一番醜い生き物だと思えた瞬間だった。
考えてみれば、当然なのだ。ウィンターソルジャーはスティーブ自身を標的にしていたのだから。しかし、これは理性で語れる話ではない。
「トニーは甘やかしてくれているんだ、悪く言うな」
「それはわかっているよ……」
「どうだか!」
バッキーはまず旧知とも言える、ナターシャを尋ねたのだという。
彼女の前ですべての武装を解いて、トニー・スタークに会わせて欲しいと請うたと言う。
その理由をスティーブはまだ聞いていなかった。
尋ねてもいない。それに、バッキーも自ら詳しくを語ろうとしなかった。
それから三週間、トニーの元で念入りな検査が行われたという。メタルアームの再プログラムや修復に関しても、スティーブに詳細は知らされていなかったが、一応のところのゴーサインが出た。
それからようやく、かつての親友である自分との対面と相成ったのだ。
ウルトロンによる脅威の影響も懸念されていたから、無理もないことだとスティーブは頭では理解していた。だから、そのように振る舞い、会いたかったという事実だけをバッキーに伝えた。
物語はこうして「めでたしめでたし」で終わることこそ相応しい、と言い聞かせた。
いや、今も言い聞かせ続けていると言ってもいい。
毎朝五時に目を覚まし、隣の部屋をあてがわれたバッキーを誘い、週に三回は早朝のニューヨークでジョギングをした。
パークアベニューを駆け抜けてセントラルパークに向かう。
その外周を二回りするぐらいではまったく運動量は足りないのだが、そう長居もできない。
このコースを考えたのはバッキーだ。スティーブはイーストリバー添いのFDRドライブを行くコースを提案したが、やんわりと避けられたのだ。
理由はわかっている。
川沿いを行けば、嫌でもかつての故郷が目に入る。マンハッタン島とブルックリンを結ぶ三本の橋がどれでも。
それにちょうど朝は、登りつつある太陽が対岸を照らすのだ。
それをスティーブは誇らしく思っていたが、バッキーは「明るすぎて」見ることができない、と感じているのかもしれない。
彼は、戻ってきてから一度もあの頃の話をしようとしない。二次大戦の頃の話もだ。
まるで、過去の「善良」だった男は存在しなかったとでも言うように。
そのかわりウィンターソルジャーとして生きてきた日々を悔いるように、その罪をあがなうために、アベンジャーズと供に任務をこなしていた。しかし、会議や打ち合わせ、行動指針についての話し合いに彼が参加することはない。
おまえについていくよ、スティーブ。
こればかりだ。
僕が気付かないとでも、と言いかけたことは何度もある。
だけれど、それを負担に思い、またバッキーが姿を消してしまうことの方が恐ろしかった。彼にはそうすることができる技術があり、実のところそれを望んでいるのではないかと思うからだ。
だから、スティーブは今のけして張り詰めているわけではないにしても、微妙な緊張を維持する方を選んだのだ。
いつかあの街に帰りたいという話題も出さずに。
部屋に飾っていた、四十年代のコニーアイランドを写したモノクロ写真も外してしまった。
彼の重すぎる後悔に大切な思い出を塗り返られてしまわないように。
それは、僕のだ。
そう言い張ってしまいたい気持ちをずっと胸の内に抱えていることを、親友は気付いてくれない。
「人が増えてきたな」
バッキーは眩しそうに、犬を連れて走り抜けていく少年と父親の後ろ姿を見送り、ぽつりと呟いた。
「戻ろう」
「ああ」
彼は、戻ってきてからいつもいつもどこか遠くを見るように目を細めている。親友の顔を見る時でさえ、だ。
そして一人でいる時に顔を上げて辺りを見回すようなことはしない。目を伏せ、ただそこにいる時間が過ぎ去るのを待っているだけのように見えた。
ここにいる時だけだ。
彼が顔を上げるのは、空を、木々を見るのは。
風は冷たいが日差しはずいぶん暖かくなってきている。水辺には水仙が咲き始めていただろう、気付いたか?
「バッキー」
「どうした、スティーブ」
スティーブは大きく息を吸い込んだ。
「いや、今日は良い天気だなと思って」
しかし、結局口にできたことは「挨拶」だ。
「ああ、そうだな」
バッキーはそう相づちを返し、タワーまで競争するぞと笑った。
こうしている時は、昔の彼と少しも変わらないのに。
「よし、勝負だ」
「10ドル?」
「20ドルで行こう。今日は調子がいいんだ」
「言ったな、スティーブ」
笑い声も、そうだ。
それなのに、バッキーの目は故郷を見ようとしない。
昨日を語ろうとしない。
明日を望んでもいない。
「on your mark」
GO!の合図で駆け出したバッキーの足取りは軽い。スティーブは地面を蹴るその様子を見て、目の周りが熱くなるのを感じた。
彼の足取りはこんなに自由なのに。
「スティーブ、20ドルはいただきだ!」
彼はそれを望まない。
「言ってろ!」
スティーブはぐっと奥歯を噛み締め、余計なことを言わないように足の動きを早めた。背中を追うのはもうたくさんだ、その子供の癇癪のような願いを込めて、隣に並ぶ。
そして、追い抜いた。
このままずっと、走り続けていたいと思った。
バッキーの息使いと足音を、ずっと聞いていたかった。