【SS】ギリシャに消えた嘘: Bite your tongue off … 

 

 

男は三本目の煙草に火をつけた。
安宿の天井は彼のような客のせいで、すっかり脂汚れて変色しているが、それを気にするような客はこんなところを選んだりはしないのだろう。台帳に名前を書く必要すらなかった。
「マラケシュか……?」
男は煙草を唇に挟んでいても、いなくても、その声に変化はない。変にくぐもってもいないし、さほどの喉を張らずとも深過ぎないところで響く声。今日は少し掠れているのは、息が止まりそうになるまで走ったせいだろう。
心臓が早撃ちして飛び出すかと思った。自分にとってそれは、イスタンブールの夕暮れ時の市場、喧騒、警笛の中を駆け抜けたその時ではなくて、男と対峙した時に、彼が自分を信じてくれるかを見極めようと、彼のペールブルーの瞳と、ほつれて頬に落ちた前髪をじっと見つめていた時だった。
ギリシャ警察を背にし、こめかみを伝い落ちる汗にも視線を動かさなかったつもりではいたけれど、彼はどう思ったろうか。今まで彼が積み重ねてきた、彼の作ったチェスター・マクファーランドという男の人生の中で、僕のような人間はいたのだろうか?
僕、ライダル・キーナーがどういう人間かなんて、僕自身もわかってはいないけれど。いつか終わりを告げるだろうと思っていたモラトリアムに終わりを告げ、罪人となってさまようことになるとは、一度として考えたことはなかった。
まして、彼のような男と供に。
彼に愛され、愛していた女、コレットはどう思うだろう。世間の言う純愛とは違うだろうが、確かにそこには二人の愛の形があって、僕はそれをすぐ近くで見ていた。
そして、その絆を乱した。
彼に抱いていた怒りは、まだ腹の底に抱えたままになっているが、今彼が自分の計画通り、ここにいるということが嬉しい。
初めて会った時よりも、五歳ほど年嵩に見える横顔。
乾いた肌に砂がこびりついているようだ。
「次に行くなら、ね」
男は、けだるげに煙を吐き出しながら目と、肌の感覚だけであたりの様子をうかがっている。
彼はずっと考えているのだ。
あの場所から、どうやって逃げ出せたのか、ここがどこなのか、僕が何のつもりでギリシャ警察を裏切って彼を助けたのか。
そして、おそらく。
僕をどうすべきか、考えている。
「悪くないな」
立て付けの悪い窓ははめ殺しになっているようなものだ。曇っていて、向こう側を見通すことも出来ない。彼はまだ、ここがどこだかは知らない。それは優越感よりももう少し、歪んだ喜びを僕にくれる。
「褒めてくれるのかと」
彼は、今、僕を利用する以外の手段を持たない。
「おまえこそ、ほぼ無一文になったような俺になぜ恩を売る?」
恩か。
激昂からコレットの仇を討つつもりではいた。彼が一人、飛行機に乗ったとわかった瞬間は、この手で彼を殺すのが正しい道だと思った。
だけれど、それならカフェで彼を見かけた時に感じた「何か」を説明することが出来ない。
目の前にいた、財産も美貌も持ち合わせた女性が一瞬にして霞むほどの、何か。
コレットも美しくて賢い女性だった。
惹かれなかったとは言わない。彼女が二人で逃げようと言えば、手を取って逃げたかも知れない。
でもそうすることはなかった。
そうなれば、きっとチェスターは僕を世界で一番深く、憎んでくれただろうけれど。
それについては惜しかったと今でも思っている。
「……新しい名前、どうする?」
冷静に考えればギリシャ警察に協力した後、アメリカに戻り、父の墓の前で膝を折るのも一つの手だった。
父の死による喪失感は、愛情があったわけでもないのに、今も体に穴を開けている。
そこに泥でも詰めて塞いでしまいたいのに、それも許されない。
その穴を、この男が埋めてくれるかも知れないと思ったのは確かだけれど、今はそれより。
別の形を求めている。
「おまえが好きにつければいい」
誰かの代わりでも、利用するだけの一過性の関係ではない。
ただ、唯一の、何か。
「ほんと?」
「ただし、おまえの父親以外の名前にしてくれ」
彼はそう言って、煙草の煙をこちらに吹きかける。その答えは、今の僕が求める、すべてと言っても良かった。
彼は父親ではない。
そう、あの男と彼を見間違えたわけではないのだ。
「マラケシュも暑いのか……?」
「多分ね」
これ以上余計なことを言ってしまわないように、僕は唇の真ん中で煙草をくわえる。
そして、彼の乾いた横顔と疑心に苛まれぴくぴくと時折震える目元を見つめながら、新しい彼の名前を考えよう。
その名を知っているのは、しばらく僕だけになるのだから、大切に、考えよう。
僕だけの、名前だ。