「ねえ、ソロ!」
とんだ食わせモノだったウェーバリー英国海軍中佐殿のおかげで、文字通り世界中を飛び回ることになったナポレオン・ソロ、イリヤ・クリヤキン、ギャビー・テラーの三人だったが、束の間の休息というか作戦待ちというか(もちろんウェーバリーの指示だ)、しばらくの間パリでの待機となった。
支度された住処はそう大きくも豪奢でもないアパルトマンだったが、少し歩けばマドレーヌ広場に出られるということもあり、ソロは十分に気に入っていた。
イリヤは居心地が悪そうで(KGBとパリというのがもう明らかに相性が悪そうだ)、ギャビーは少し様子がおかしかった。いつもニコニコしているタイプでもないが、気の強さがさせる仏頂面でもなく、気が沈んでいるように見えた。
そんなこともあり、ソロは夜のお相手を探しに行く前に、ギャビーのためにとびきりのショコラを探しに行こうと思っていたところだった。
その彼女の声はどこか悲愴に響いていたので、ソロはゆっくりと振り返りながら、眉をひょいと上げてそれに答えた。作られた完璧なスマイルは彼女には必要ない。
ギャビーは下唇を噛み、視線を上げられずにいた。言いたいこと、聞いて欲しいことがあるけれど積極的に言えるわけではない、そういう言外の声が滲み出ているような様子にソロは一つ頷いて、こう続けた。
「散歩に行こう、ギャビー。今日は空が高い」
「え、ええ……」
イリヤがこんな様子の彼女に気がつかないはずがない。しかし、自分は役に立たないと思ったのだろう。彼のいる部屋からは何の物音もしない。難しい顔をしてチェス盤を見つめているはずだ。
パリの冬の空気は重くて、冷たい。ヨーロッパなどどこも同じかもしれないが、ギャビーが過ごした街のまとわりつくような、足元を絡め取られるようなそれとは違う。
空を見上げたそこに有刺鉄線を見ることもない。
「あのね、ソロ……」
彼女の足元はかつての丈夫なだけが取り柄の行員用のブーツではなく、なめした柔らかい牛革で作られたヒールのある、キャメル色のブーツに変わった。
一生、見ることのなかった景色を見られるようになったはずの彼女が、こんな顔をする理由がすぐには思い至らず、ソロは彼女が話すのを待った。
「シュトーレンって……作れる……?」
しかし、その問いにソロは一瞬何のことを問われているのかわからず、間を置いてしまった。
「作れるだろうね」
幸いギャビーがそれに気がつく前に返事をすることが出来たが、彼女はその答えにも目線を下に向けたままだ。作ったことはないが、レシピを探すことはたやすい。それに料理に手慣れていれば、家庭料理のたぐいだろうそれに苦戦することはまずない。
ああ、そうか。
と、ソロはあたりの華やいだ空気に今更ながらに気がついた。シャンゼリゼ通りにはクリスマス市が立ち並び、ラファイエットのショーウィンドウは眩しくて目がくらむほどの飾り付けが為されている。
彼女の目にそれはどう映っていたのか、考えていなかった。
「わたしね……、義父からなんでも習ったの……」
車の修理や改造の仕方、工具の扱い、運転技術、確かにそれはソロの知るところで、生半可な技能でないこともわかっていた。
「ああ、良い先生だったんだな」
うん。
ギャビーは肩をすくめながらの曖昧な笑みを浮かべて、小さな声で続けた。
「だけど、ママからは何も……」
彼女の義父も、母親も、そして実父もすでにこの世にはいない。彼女は孤独だ。ディオールのワンピースを着ても、ランバンのトレンチコートを着ても、けしてそのことがなかったことになるわけではない。
彼女は自分やイリヤと違って、普通の少女でいられるはずだった人間だからだ。
「それなら今からマーケットに行って材料を買おう」
ドイツのクリスマスには欠かせないシュトーレンを彼女は何年、口にしていなかったのだろう。
ソロはそのことを問うかわりに、盟友のように、彼女の肩のあたりを肘でこつんと小突いた。
「生地を捏ねるのはイリヤに任せればいい」
確か、たくさんのナッツとドライフルーツ刻んで入れるはずだ。
マジパンはどうやって作るんだったかな。
「それから、とびきりのグランマニエが必要だ」
「最高」
美味しく出来ればそれを君のレシピにすればいいんだ、ギャビー。
ソロはそう言って、ギャビーの二歩ばかり前を歩き出した。
彼女が溢れる涙をハンカチに吸い込ませて、道ばたに止めてある車のサイドミラーで化粧を直すところまでは、ボスのように先を歩こう。
準備が済んだら、お姫様のエスコートをさせてもらうから。
「ソロ」
「何だい、ギャビー」
振り返ったそこにはいつもの勝ち気なギャビーが立っていた。
「ありがとう」
胸に手を当てて、感激の至り、と大仰に答えたソロは彼女の手を取り、ゆっくりとマーケットに向けて歩き出した。
「ロシアのクリスマスはどうなのかしらね?」
「サンタクロースが怖いってことぐらいしか知らないなあ」
イリヤは絶対、小さい頃、あれが怖くて泣いたはずだ。
たぶん、きっと。
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イリヤはまた今度!
ソロだけ地の文で名字にして見ました。名前は特別みたいなので。