2013 Valentine Request
少しこの界隈を走るには目立つ、フランス車。
英国諜報部、通称サーカス所属のピーター・ギラムの愛車だ。
しかし、このシトロエンDSのエンジンからミュゼットやシャンソンが聞こえてくるわけではない。雨に濡れた石畳を走るのに不自由しないというだけだ。
少し低い車体が好み、というのもあるけれどそんな理由を誰から問われるわけでもない。彼にとってはただ一人、この車を褒めて気に入ってくれる人間がいる、ということが大事なことだった。
「やあ」
雨足は結構強くなっていたが、彼は傘を差さずに小走りで車に近づいて、当然のように助手席のドアを開けた。早く入って、と目の端で合図すると、うん、と小さく頷いて濡れたスラックスもベストもそのままにシートに収まった。濡れちゃったな、とわびるように眉根を寄せるので、ギラムはかまわないでというように首を横に振る。
エンジンは切ってあって、ワイパーも動いていない。フロントガラスは雨粒に邪魔されて前がよく見えなかった。おそらく外からも同じく、中に誰がいるかとまではわからないだろう。
そうでなければ、ここまで来ていない。
「珍しいね、……迎えに来るなんて」
穏やかでゆっくり話す彼の声を毎日何時間も聞いていられる人間が大勢いる。なぜなら彼は教師で、ここは彼の務める学校の裏門前だった。彼の言うように、ギラムがここまで彼の職場、日常に近づくことは滅多にない。それどころか、彼に自分の素性をすべて明かしてすらいない。
彼が知っていることと言えば、ギラムが公務員だということと不規則な勤務だということ、少し仕立ての良いスーツが着られるぐらいの給料をもらっていることぐらいだ。それでも、彼はそれ以上を詮索したりはしない。
こちらが平気な顔で嘘をつくことを知っているからだろうか?
「近くまで来たから」
彼はぼそりと呟いたギラムの声に、うん、とまた頷いて、にっこり微笑んだ。
「ありがとう、ピーター」
彼は、知らない。
「……ああ」
ーー僕がどれだけ君を大切に思っているか。
ギラムはエンジンをかけ直すと、ゆっくりとアクセルを踏み込みハンドルを回した。少し前輪が滑ったが、そのまま車は前に出る。ここから家までの道は今までに通ったことのない道順を通らなければならない。
普通が不審に思うだろう。どうしてまっすぐ帰らない?と聞いてくるはずだ。珍しいとは言えここにくるのが初めてというわけでもない。そのたびに違う道を行く、秘密の同居人、のことを彼はどう思っているのだろうか?
普通なら。
「リチャード……」
「ん?」
「君はどんな時……、僕を軽蔑する?」
車内の空気が少しばかり冷えた気がしたが、助手席のリチャードはいつもと変わらぬおだやかな表情でこちらを見た。
それから、少しだけ悪戯っこを叱るように軽く見とがめるような表情をあえて作って、ゆっくりと首を横に振った。
「けして」
それからその一言だけを言うと、ドライブを楽しんでるんだとばかりにもう一度優しく慈愛に満ちた笑みをくれた。
ギラムは気の利いた返しも出来ずに、そう……、と短い相づちだけを返し、ハンドルを握る手に力を入れ、新しい道を行くためにカーブを曲がる、そんなことしか出来なかった。
*** *** ***
同性の恋人と同居していることが後ろめたいわけではない。ギラムはリチャードを下ろした後、一人車に残して煙草をに火をつけた。
車内が白く煙って行くが窓は開けない。雨は変わらず降っているし、リチャードもあまり遅くなれば不審に思うだろう。一本分が限界だ。
「ただ、君に伝えたいだけなのに……」
ぽつりと呟いた声があまりにわびしく響いたので、ギラムは大きく息をついて煙をすべて吐き出して、二人の暮らす部屋へと向かうことにした。
「……やあ」
自分の家なのに他人行儀だな、と思いながらもギラムはそう言って扉を開けたすぐそこにいた彼に小さく笑いかけた。
ここは自分にとって楽園であり、箱庭だ。閉ざされてはいるけれど、本当の自分を表に出すことが出来る、救いの場所でもある。
リチャードの手にはカードと、ブーケがある。
「ありがとう、ピーター」
今日はバレンタイン・デーだ。仕事場で三つの嘘をついて、この作戦を実行したのだけれど、こちらに腕を伸ばしてくれたところを見ると成功、と言えるだろう。
だけど。
「……ピーター?」
ぎゅうっと力をこめて抱きしめたのは、それを心から喜べなかった弱さからだ。
普段、口には出せない色々をカードに書けば良かったのに、綴れたのは彼の幸せを願う言葉とイニシャルだけ。
こんなにも、愛しているのに。
言葉にならないから、伝えられない。
「ピーター……」
リチャードは塞がった両手を、それでもしっかりとギラムの背に回してくれた。良い子だから泣かないで、とでも言うように。ギラムはまたしても言葉を紡げず、すっかりセットが崩れて大きく波打ったようなブロンドを、甘えたように彼の頭にすり寄せた。
たくさんの嘘を言うこの唇で、彼への愛を紡げない。
「僕も、僕も……君を心から愛しているよ」
僕も、だ。
ギラムはその言葉にいっそうかき抱く腕の力を強くしてしまうが、リチャードは少しも抵抗しなかった。
ありがとう、嬉しいよ。
それどころか、そんな風にくり返し耳元で囁いてくれるのが嬉しくて、しばらく、そのままの格好で彼を抱きしめていた。
本当はストーブを付けた方がいいし、コートも濡れているから乾かした方がいいのに。
結局。
「……食事も作ったんだ」
ようやくそう言って彼を解放することが出来たのは、ずっとしばらく後のことだった。
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ふう!こちらも初書きギラリチャです。
何というか、妄想ではほんと色々出来上がったり
してるんですけど、出力してないの多すぎですね!