2013 Valentine Request
ステファノスに困り顔をさせたいわけではなかった。ただ、日がとっぷり沈んでからもマーカスが帰って来ないものだから、三度ほど、どこに出かけているのか聞いただけだ。
エスカはため息をつき、悪かったというように気の良い老人から目を反らす。アクィラ叔父の用事を頼まれて少し街まで買い出しに出かけていた隙をついて、という言い方が正しいかはわからないが、その間にマーカスは馬を駆って遠出をしたようだ。
もちろんエスカはマーカスの行動を言い咎める立場にない。しかし、一応のところ主人である彼の帰りが遅いことを純粋な気持ちで心配している、とも言えない。簡単に言えば、面白くないのだ。
そもそも長い旅路より戻ってからと言うものの、マーカスの方がエスカから片時も離れようとしなかったのだ。露骨な命令や束縛はなかったが、目が口ほどに物を言うものだから、エスカもマーカスの望むようにしていた、とも言える。彼はまだ何らかの喪失に怯えているのだろう、そんな風に解釈していたのだけれど、今日は何の前触れもなく、何の書き置きも伝言もなく、彼は一人で出かけて行ってしまったところを見ると、心配りは無駄だったのかもしれない。
結局は彼は彼自身の尺度の中で行動している、というわけだ。
やっぱりそうだった、とふて腐れるエスカにステファノスは何か言いかけたようだったが、剣呑な空気を感じ取ったのだろう、そのまま静かに下がって行った。
エスカはそのままふて寝を決め込んでしまうのが良いだろうと思いながら、少し奥歯を強く噛むことで口汚い言葉を発することをこらえると、結局屋敷の外に出て待つことにした。帰ってきたところをいきなり頬を叩いてやろうか、とも思わないわけではないし、何らかの意趣返しをしたい、と思っている。
彼の大らかさがしたこととわかっていながら、自分の心の狭さにエスカは小さく舌を打った。
*** *** ***
あたりはすっかり暗くなっている。篝火を焚いてはいるが、その近くを照らすのが精一杯といった程度だ。マーカスはエスカほど夜目が効かないし、鎧を着て出かけたのでもないようなので、いよいよ落ち着かなくなってきた。
置いていかれたと知ってへそを曲げてはいたがこうなると何事かあったのではないか、と危惧する気持ちの方が大きくなる。
苛立ちが焦燥に変わり、不安に胸の奥がつきつきと痛み出した。何度も空唾を飲み込むが喉はからからに乾くばかりだ。
いよいよ、いても立ってもいられなくなり、厩に向かおうとした時だ。遠くに嗎が聞こえ、耳を澄ませは蹄が地を蹴る音も飛び込んでくる。
「マーカス!」
気づけば硬く握りしめていた手は痺れを訴えるほどだったのだが、エスカは気にせずに音のする方へと駆け出した。斜面に足を取られながら下って行くと、機影がやがて見えてくる。
「エスカ!」
息が上がり、足が止まったところでようやく、マーカスはエスカの存在に気がついた。心底驚いた表情で目を丸くしている。
「どうしたんだ?」
と、言ってすぐに馬から降りたマーカスだったが、エスカには彼の彼らしくなさにすぐ気がついた。何かをかばうように片方の腕を背の方に隠しているのだ。
「マーカス、まさか怪我を?!」
エスカはどっと溢れたような汗も拭わずに駆け寄ると、その腕に手を伸ばした。矢傷ならばすぐに洗わなければならないし、獣に噛まれたならば少し肉を焼いておいた方が良いかもしれない。
「あ、ええと、エスカ?」
しかし、マーカスの腕からは血の匂いはしなかった。触れても痛みに身をよじることもなかった。
「……」
その代わり、あたりに漂うのは甘い香り。エスカは言葉を失い、そのまま一歩、二歩と後ずさる。
そこにあったのは冬のブリテン島ではまず見ることのない、鮮やかな色をした様々な種類の花だった。一抱え、いやそれ以上あるだろうそれは素晴らしいものだったが、エスカにとっては何か別の異形のもののように思えた。
「その、これは……」
言い淀んだマーカスになりを潜めていた怒りがふつふつと湧き上がってくる。
「こんなもののために、あなたは一人で出かけたんですか?」
どこの美姫に捧げるものなのかは知らない。アクィラ叔父に縁談を勧められその気になったのかもしれない。
「あなたはあまりに簡単に命をかけすぎる……!」
指先にまでようやく血がめぐり、エスカは抑えきれず、感情の高ぶりがすべて込められた鋭い視線でマーカスをにらみつけた。マーカスでなくともそれを憎悪と捉えそうなほど。
それからエスカはその花を、同じ鋭さを持った眼差しで射抜くと喉を焼くような激しさをで、こう叫んだ。
「死にたいならいつでも俺が殺してやる!」
「エスカ、待ってくれ!これはおまえにだ!」
ほぼ、同時だった。
物騒な啖呵はマーカスの思いがけない言葉に重なり、奇妙な沈黙に変わる。
「……」
言葉を失ったその時、エスカは数日前の会話を思い出した。
奴隷となってからというものの、花の香りをかぐこともなかったから、春が待ち遠しい、そんなことを確かに口にした。彼が故郷の春の話を聞かせてくれたからだ。
腕にこの体をしっかと抱え込みながらの寝物語だ、春までそんな話は忘れられるものだと当然思っていたのだけれど、何を思ったかマーカスはこの冬の盛り、曇天からはすぐに氷の粒が落ちてきそうなこの日に、どこかへ花を求めに出かけたというのだ。
アレクサンドリアから来る船が今日、港に寄ったのかもしれない。
それでも、一介の解放奴隷の睦言に対してそこまでするローマ人がどこにいると言うのだ。
「街道を行ったから……大丈夫だ、怪我もない。急いでおまえに見せたくて……」
マーカスは困ったな、と眉を寄せつつもにっこりと鷹揚に笑った。殺してやる、と言われたことなどなかったことのように。
「……マーカス……」
「謝らなければならないのは、俺の方だな。おまえに隠し事をしたかったわけじゃないんだ」
機嫌を直しておくれ、と大きく肉厚な手の平で頭を撫でられては、ささくれだった感情などすぐに凪いでしまうではないか。
唇を引き結んでしまっては何も伝えられないのに、と顔を俯けるとマーカスはくすりと笑って、その場にひざまずいた。
「!」
何をするんですか、かと腰をかがめようとしたエスカにマーカスは笑顔のまま首を横に振った。
「言ったろう?これはおまえのための花だ。受け取ってくれないと」
そして、その腕いっぱいの花をこちらへと差し出す。
「……ありがとうございます」
「明るいところで見ると格別に美しいんだ」
ええ、そうでしょうとも。エスカはどんな顔をしていいのかわからないままに花に顔をうずめてしまう。
「……良かった」
マーカスには伝わったのか、ゆっくりと立ち上がるとまたエスカの頭を撫でた。じんわり伝わってくる温もりに、涙がこみあげてきたのを見られぬようにしたいのだが、今日のマーカスにはすべて見通されているような気がしてならない。
最初に花を見た時に抱いた、嫉妬の炎も見えていたに違いない。悪戯っぽく笑う目元がそれをうかがわせる。
「馬を頼む。ステファノスに口止めを頼んでいたから、礼をしておかないとな」
「……だいぶ困らせてしまいました」
「だろうな!」
ははは、怒ったエスカは怖いから、マーカスはそんな風に言って遠乗りの疲れも見せない軽い足取りで屋敷へ向かった。
「……はあ……」
ため息は花の香りにまぎれてしまうが、火照ってきた頬はどうにも出来ない。明るくなくて良かった、と呟いたマーカスは花を抱えながら、馬の手綱を引きゆっくりと歩き出した。
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聖バレンティヌスさんが生まれるより100年?くらい前だから
バレンタインの概念はありませんが、マーカスに頑張って
贈り物をしてもらいました!
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