アンソロ寄稿からの再録です。
メートル・ド・テル。
ディレクトール。
パトロン代理、今のところは、おそらく。
その他、いくつかの肩書きが今の自分にはぶら下がっている。数年前まではメートルとして必要なことだけに集中していれば良かった。
とは言え、メートルに任される仕事の範囲は広かったから、楽だったというわけではないがプレッシャーはそれほどでもなかった。ジャン・リュックという最高のシェフの名声とその腕前がしっかりと比例していたことも、店の規模も、パトロンが自分の父親であるということも助けになっていたと思う。今思えば、という話ではあるけれど。
あの頃は寝ても覚めてもレストランのことばかりで必死だった。寝言がメニューだったり、ワインの来歴だったこともあるぐらいだ。
「……ここまでにしておこう」
そんな風にトニーは少しだけ『想い出』に足先を突っ込みかけたが、頭をゆるく振って現実に立ち返った。父の具合いがあまりよくないという現実が、三つ星を取得できたという喜びの頂点、気分のこれ以上ない高揚が落ち着いてくるにつれて、眼前に迫ってきていた。
三つ星の取得については、もちろん父も大いに喜んでくれたので、今更ながらの親孝行の一つにはなったと思う。それでも手放しで、理屈抜きでかわいがってくれる相手は自分のような「強がり」にはまだ必要だった。
情けないことに現実を認めたくないばかりに、病院から足が遠のいていたのだけれど、不義理がいつか後悔に変わってしまうということを、間近で見て知っていたトニーはようやく覚悟を決めた。
その後悔をした張本人が今どう思っているかは知らないけれど。
「ふう……」
人の気配のないオフィスで今日の分のメールや予約の確認を終えると、トニーは襟元を少しだけ緩め、出かけることにした。予報では今日の気温はずいぶんと高くなるらしい。
定休日のあるレストランがうらやましくなってしまうのはこんな時だ。ホテルの併設だとそういうわけにもいかない。毎日の義務とも言えるメニューの確認までには戻らないとアダムが癇癪を起こすだろうと思うと、のんびりもしていられない。
ずいぶん丸くなって人間関係という言葉を理解することができるようになってきた、三つ星レストラン「ランガム」のシェフ、アダム・ジョーンズだったが、彼自身が「まとも」になったかどうかはまだ執行猶予中みたいなものだ。
今まで色々なタイプのシェフを見てきたトニーにはわかる。彼等は卓越したセンスと技術を持ったアーティストなのだ。
つまり。
常識の尺度から外れているのが、もはや前提になってくる。彼等はいつだって自分の芸術のことしか、考えていないのだ。その芸術の虜になって、夢中になっておきながら、そこから逃げ出したくなる。それは外から見ればあまりに独りよがりだ。
しかし、アダムはその典型のような男だった。癇癪持ちで、傲慢で、悪癖は山とあり、店で動く金の計算なんか一度もしたことがない。
それでいて、トニーが出会った中で一番弱い男が、彼なのだ。
その弱さを知っているのが、自分だけでないことはわかっていたが、それをどうと思うことはなくなった。昔は嫉妬じみた感情や、心配をしすぎるあまり、自分を責めたりもした。彼がどこかで死んだのだろうという噂を聞いてからは、彼を想い出に、過去にしてしまおうと必死になった。
それなのに、墓の場所すらも、調べる事が出来なかった。
現実を認めたくなくて、彼の存在を失いたくなくて。
自分は以前と少し違う人間になってしまったのだと思う。諦念が人を醜くすると聞いたこともあるが、これは違う。
ただ、恋を一つ。
胸のずっと、ずっと奥にしまい込んでしまっただけだ。
恋というものは制御できずに浮かれたり、泣いたり、時には暴れ出したりする厄介なものだから。
「……アダム?」
今は彼が落ち着いていられれば良い。このレストランが彼の生きる理由になればいいと願い、できる限りのことをしているつもりだ。
「トニー」
しかし、そんなトニーでも驚いたような、怪訝な表情を隠すことができなかった。なぜなら、いるはずのない男が目の前に立っているのだから。
ええと、今は朝の八時にもなっていないぞ?
最近は仕入れをマックスやデイヴィッドに任せて信頼できるようになったと思っていたけれど、やはりまだワンマン癖が残っているのだろうか?
トニーは目をあちこちに泳がせつつ、アダムの意図を探る。しかし、最近は本当に落ち着いているように見えたので心当たりが何もない。
「見舞いに行くんだろう?」
トニーが何か明確な問いかけを見つける前にアダムはそう言って、バスケットをこちらに突き出した。
ピクニックに持っていくような、それを。
「……え?」
「え? じゃないぞ、リトルトニー。おまえのおやじさんがまずい病院食で辟易している頃だろうから、差し入れ作ってやったんだ」
「どうして?」
「……どうして?」
よかれと思ったのだろうけれど、その心境がトニーには理解できなくて、首をかしげてしまった。頼んでもいなかったし、そもそも彼が誰かに差し入れをするというアイデアを持っていることすら驚きで、トニーは少しばかり冷静さを失ってしまった。
「君はそんなことしなくていいんだ」
つまり、気難しい男に対しての正しい言葉の選び方をしくじったということだ。
「……そんなこと?」
今の状況を天気に例えるなら、青空が一転、一気に暗くて重い雲に覆われてしまった、そんな状況かもしれない。時には憎らしいと思ってしまうぐらいのハンサムが台無しになるぐらいの深い皺がくっきりと眉間に刻まれた。
鋭い視線を放つ青い瞳は相変わらずきれいな色をしているけれど。
そう、初めて彼に会った時、言葉も出来ないのに彼のこの青い瞳は少しも不安に曇ってはいなかった。
「いらないならいい。リリーにでも食わせる」
アダムはトニーが言い訳を用意する前にくるりとこちらに背を向けて、あっという間に大股で廊下の向こうに歩き去って行ってしまった。引き留めようにも、言葉が本当に見つからない。
そんなことをしなくても良い、というのは取り繕った言葉ではなかったから。
これは本音だ。
「……リリーにでもって、ひどいな」
彼女は案外君のことを気に入っているのに、と肩をすくめてから重たい息を吐いたトニーは角に消えたアダムの気配を思いつつ頭を振った。
「……三つ星シェフが作ったランチボックス? 100ポンドでも買いたがる人はいるだろうな」
そう、アダムはシェフなのだ。
シェフがメートルに気を遣う必要はないし、こちらは彼が求める「完璧」の手伝いをするだけだ。彼がこちらの好意を知っているのはわかっているが、もはや何一つ期待していないこともわかっているはずだ。期待などしていたら身がもたない。
もし、彼がまた壊れてしまった時。
目の前から消えてしまった時。
とても自分は耐えられないと思うのだ。だから、あくまでも彼の芸術のために自分は力を尽くすけれど(お金の問題も、任せてくれて構わない)(これでも有能なのだから)、それだけに留めておきたい。
期待も、夢も、そして一番のトラブルメイカーである恋心も、自分には毒気が強すぎるものだから。
トニーはもう一度、ため息をつくと予定通りの時間に五分ほど遅れて、ホテルを出た。
ただ、あのバスケットの中身が何だったのかは気になる。それでも深追いする気にはなれなかった。きれいな色をした動植物には毒がある、それが常識だ。
人間も、きっとそうなのだろうから。
これ以上を望むものではないのだ。
父親はまるで毎日顔を合わせているかのように接してくれた。ご機嫌でよくしゃべり、それからアダムにランチボックスを持たされそうになったと言ったら、医者に許可をもらえたらまた頼むよと笑ってくれた。
あっという間に面会時間は過ぎていき、名残り惜しかったけれど戻らないといけない。今度は間を開けずに来ようと心に決めて、父の両頬にキスをして病室を出た。後ろ髪を引かれはしたが、すぐにもリトルトニーの顔ではなく、三つ星レストランのメートルの顔に戻らないといけない。
車を飛ばし、レストランに戻ると口元だけは完璧なスマイル、しかし目は少しも笑っていない、ケイトリンが早歩きで近づいて来た。
「まさか、準備が出来ていないとか?」
「いえ、完璧。今日のメニューもパーフェクトです」
「良かった。それで?」
「トニーはまだかと37回聞かれました」
数えていたので正確です、と引きつった顔で言われてはトニーも冗談にはできない。申し訳ないと謝りながら彼女の歩調に合わせて仕事に戻ることにした。
「とにかく早く厨房に顔を出して下さい。私は花屋と打ち合わせしてきます」
さあ、早く、早く! と追い立てられるがままに厨房に入ると、大きな声とともに両手を目一杯広げた大げさな仕草のアダムが待ち構えていた。今朝方、背を向ける前に見せた表情ほど険しくはないが、ご機嫌というわけでもない。
「トニー!」
「僕はここだよ」
見えてるだろうのに大声を出すな、と窘めるような視線を投げてもアダムは知ったことじゃない、とでも言うようにメニューのリストをカウンターにたたき付けた。
「ワインを選べ」
「言われなくても」
ケインリンからメールで知らされていたので、だいたいのイメージは頭の中で出来上がっている。後は少し味見をすればいいだけなのだけれど、まだそこまでの仕度はできていないようだ。
「……親父さん、どうだった?」
するとアダムは彼らしくなく、周囲を気にするような小声でこちらの様子を伺いながら、尋ねたのだ。本当にこんな気配りのできる彼を見たことがないトニーは一度驚きに大きく目を見開いてから一呼吸置いて、うん、と一つ頷いた。
「……今日はゆっくり話せたよ、ありがとう」
アダムがロンドンに来たばかりの時は「死にかけ」とまで言っていたのに。
どういう心境の変化なのかはわからないが、ありがたく気遣いはいただいておこう。トニーは口元で笑みを作ると、もう一度小さく頷いた。
「そうか」
機嫌はもう悪くないようだったけれど、どこかまだ何か言いたげだ。しかし、相づち以上の何を言うつもりもないのか、小さく鼻を鳴らして会話は終了となった。ケイトリンの大げさだとは言わないが、本当に自分を探していたのかは疑わしい。
(何が何やら……)
エレーヌが遠くで肩をすくめているので、トニーは同じポーズを返しておく。どうやら今日のアダムは本格的に様子がおかしいのか、他の皆が明らかにこちらの様子を窺っているのがわかる。
それが料理に影響しないとも限らない。
「デイヴィッド、何があったんだ?」
そう思ったトニーは少し離れたところで下ごしらえを続けていた青年にそう声をかけた。彼は困ったように眉根を寄せてすぐ隣のマックスに助けを求めるような顔をしながらも、言いにくそうに答えてくれた。
「……シェフの料理を食べなかったんですよね?」
「……あー……」
端的に言えば、そうだ。
そして、それは完璧を求める男に対する仕打ちとしては、かなり「最低」の部類だったかもしれない。
「まあ、そのわりに暴れもしなかったし、それほど心配することもないだろうが」
マックスはナイフを置いて、耳を貸せというように合図をする。
「とりあえず愛想よくしてやってくれ。最近愚痴が多くて」
愛想よく?
トニーは首をかしげ、まったく心当たりがないと返すが、マックスもデイヴィッドも取り合ってくれない。
「上手く言えないんですけど……」
ソースの味を確認しているアダムを横目で伺いながら、デイヴィッドは続ける。
「前とは少し、違いますよね……?」
「何が……?」
何がって、そりゃ……とマックスが言いかけたところで、エレーヌの声がかかる。
「デイヴィッド、チコリーが足りないわよ。確認して!」
「ウィ、マダム!」
マックスは俺もオーブンの温度を見ないと、と慌ててトニーから離れて行った。顔を上げれば険しい表情でアダムがこちらを見ていた。いや、睨んでいると言った方が正しい。
何?と知らぬふりで小首をかしげて促すが、返事はない。
ただ、じっとこちらをにらんで、ややあって視線を外しただけだ。
こうなったら様子を見るほかはない。暴れたり、怒鳴ったりしてくれた方がよほど対処は楽だ。しばらく続くようならドクターに相談しても良いかもしれない。それとも「シェフ」としての悩みならば、リースに何か話しているかもしれない。会えば必ず一悶着起こす二人だが、彼等の間には料理人でなければわからない特別な「何か」がある。
昔はそれを見るのが辛かったけれど、どうやっても手が届かないものだと気付いてからは、考えないようにしていた。
「……ワインを見てくる」
賢い生き方を選ぶことができた、とトニーは納得している。譲れないものを一つだけ、それを決めたら後のものにはすべて固く蓋をして隠してしまえばいい。
それでずいぶんと楽になった、そんな気がしていた。
しかし、何一つ上手く噛み合わないちぐはぐな時もあるようで、こんな時ばかりは少しだけ途方に暮れてしまう。
それでも今日は満席の予約が入っている。今すべきことはワインを決めることだ、誰ともなくそう告げるとトニーは面白くないながらも仕方なしに厨房から離れることにした。
今夜はおしゃべりな客が多くて辟易した。中身のない自慢話だって右から左に流すだけとはいかない。頬の筋肉が明日あたり筋肉痛になりそうなほどの笑顔も振りまかざるをえなかった。
厨房もねぎらわねばとは思うけれど、しばらくはフロアの端の席に腰かけたまま動けない。ランチボックスを断ってしまった手前、そこらで適当なものを食べるわけにもいかず、今の今までメニューのチェックとワインを選ぶ時に一口ずつ口にしただけで、空腹も極まっている。
最後の客を見送った後、気が抜けたのか目眩がするほどだった。チョコレートか何かをつまめばやり過ごせるだろうか、と思ったその時だ。
「トニー」
また不意に現れたシェフの声は低く、少し掠れていた。
「……やあ」
不機嫌というよりも、すねているような表情に見えるのは希望的観測というものかもしれない。
駄目だぞ、トニー。
その期待には上手に封をしてあっただろう?
「えっと、……アダム?」
しかし、トニーの動揺など知ったことかとばかりにアダムは新しいクロスをテーブルの上にかけ、二人分のカトラリーを適当に転がした。金属のぶつかる音が静まり返ったフロアに響く。厨房では見習いがあちこち磨きをかけている頃だろうが、シェフは最後の一品を作り終えたら仕事は終わりだ。お呼びがかからなければ部屋に戻っても良い。
しかし、彼はなぜかここにいる。
誰もいなくなったレストランに彼がいる意味はないのに。
「一緒に食うならいいだろう」
「あ、うん」
やはり、今朝のことが彼にとっては屈辱的な出来事だったのかもしれない。拒絶をしたわけでも食べたくなかったわけでもないが、理解が追い付かなかったのだ。
彼があんなことをしようとした理由が。
そして、今、こうして同じようなことをやり直そうとしていることについても。
「……リリーは何だって?」
「甘いものが少ないと駄目出しされた」
「厳しいなあ」
無造作に並べられた料理は一見すると手早く作ったまかないにも見えたが、やはり愛想のかけらも見えないむっつりとした顔でサーブしてくれるのを見守っていると、手の込んだものであることがわかった。
無地のプレートに並べられたのはフォアグラのトリュフだ。ココアパウダーとピスタチオを細かく刻んだものがまぶされていて、一口囓るとすぐにシャンパンが欲しくなってしまう味だ。アダムはこちらが口に出す前に用意があると、すぐにグラスと瓶を持ってくるが、こんな風に彼が人のために動く様を見ることがあまりなかったので、トニーは何と声をかけていいかわからないまま、その美味を味わうことに徹することにした。中にはベリーのソースが入っている、最高だ。
ただ、アダムの料理が美味しいのは当然なのだ。損得や店の評判、そのあたりのことを一切考えずに批評するべきなのか、単純に素直な感想を知りたいだけなのか、わからない。
続いてはしっかりと冷やされた、エビとアスパラのブランマンジェだ。デザートの定番ではあるけれど、しっかりと溶け込んだエビのエキスとフィッシュソース、カイエンヌペッパーで味付けされたアーモンドミルクを固めた冷菜は、ソテーしたエビのむき身とルイユソースを少し合わせて口の中に招き入れれば、自然に頬がほころんでしまう美味しさだった。
そうだ、今日は少し蒸し暑くて。
ロンドンだというのに三十度を超えるなんて珍しいよね、と父と話したんだっけ。
うん、冷たいと疲れていても喉を通るし、食欲がわいてくるね。
「やあ、デイヴィドも巻き込まれたのかい?」
そこへ追加の料理、とワゴンを運んできたのはデイヴィッドだ。
「ついで、です。ついで」
アダムに眼光鋭くにらまれた将来有望な青年は引きつった様な笑みを浮かべながら、アッシ・パルマンティエをサーブしてくれた。マッシュしたカボチャとポテトの下には、ブイヨンに煮込まれた鴨肉とウサギ肉を細かく裂いたものが隠れている。
それにホタテのソテーまであるのかい?
これは、またずいぶんと。
「過保護」
くすっと笑うと、アダムはデイヴィッドを鳩にでもするように手で払って追い返すと(彼も一刻も早く逃げ出したかっただろうが)、深く重たいため息をついた。
「おまえは俺が料理しかできない男だと思っているんだろう」
答えはイエスだったが、今日はしくじってばかりな気がするので、できれば上手くやっておきたい。他のスタッフ達も同じことを思っているだろう。デイヴィッドの表情でそれは察した、とトニーは小さく笑った。
メートルとして言うなら、今日のメニューはコースとして成立していないでたらめなものだ。関連性もなければ、バランスもてんでばらばら。
だけれどすべて、一口で分かる。
全部がトニーの好きな味で、好物ばかりだった。
「くそっ」
するとアダムはテーブルを拳でドンと叩き、それから舌打ちをした。
何か言いたいことがあるのなら、言えばいいのに。
「……それ以外は僕がやるよ」
トニーはそんな風に思いながらも、きっぱりと一番大切なことだけを伝えることにした。
だから。
だから、もう。
「黙って消えたりは……しないで欲しい」
ちくっと痛みが走るぐらいに下唇を噛んで、それだけだよ、とどうにか続けてトニーはホタテにたっぷりとサヴァイヨンソースをつけて口に放り込む。
噛みしめずとも甘さが広がり、すぐに表情が緩む。
アダムの料理は彼の性格とはまるで違うと言う声がほとんどだが、それは違う。虚勢だったり、傲慢だったり、色んなもので彼は鎧うているが、一番根っこのところにあるのは、弱さ。
それから、どこにも向かっていないかもしれないが、優しさもある。それが、こんな風に料理に伝わっていて食べる人間を幸せにしてくれるのだ。
ただ、彼はその優しさをいつまでも認める気はないし、存在を憎んでいるかもしれない。
それでも、トニーはその優しさを信じていた。
だから、彼の望む通りの「友人」でいることを選んだのだ。
「……トニー……、おまえはどうして……」
はああ……、と聞こえよがしのため息をついた後、アダムは頭をぐしゃぐしゃにかきまぜると、もう一度、ドンと机を叩いた。
「アダム?」
そして、怪訝そうに眉を寄せたトニーの両頬をいつかのあの時のように包みこんだかと思うと、
「……!」
あの時よりもずっとずっと情熱的な。
「……ん!」
キスをした。
おしゃべりよりもずっと饒舌で、それから視線よりも百倍甘い。テーブルも邪魔とばかりに背中で押しやると、体をこちらに密着させようとしてくる。
嫌だと突っぱねることができるぐらい、強くなりたかった。
彼を最高のシェフでいさせるためだけの存在になりたかった。
そうすれば、いつまでも近くにいられるから。
それだけを望んだのに。
すべてに封をしてしまいこんだのに。
「……ひどい……」
ひどいよ……。
掠れた声は熱に上擦っていて、情けないぐらいに震えていた。こんな風になってしまうから、恋は捨ててしまいたかったのに。
どうして、彼は以前と同じように素通りしてくれなかったのか。
「プロポーズに聞こえたからな」
そう言ってアダムはようやくにっこりと、誰もがつられて微笑んでしまいそうな甘くてとろけるような柔らかいスマイルをこちらに向けた。
昔はあの青い目で見つめられて、恋に落ちない人間がいることすらトニーには理解ができなかった。
だって、僕は。
もうずっとずっと。
ああ、上手くやれているのと思っていたのに!
トニーは胸が裂けてしまうのではないかと思うほどの痛みを感じ、手の平でぎゅっとそこを押さえつけた。
「……シェフでない時間も必要だって、ジャンは言っていただろう?」
彼はその時間を作れずに、娘と一番の弟子を失いかけたと言ってもいい。トニーはその苦しみを間近で見ていたから、ジャンの言いたかったことがわかる。
ただ、その言葉を、アダムが覚えていたことは驚きだった。
あの頃はもう、ほとんど頭が「どうかしてしまった」状態になっていると思っていたから。
後悔は、トニーとていくらもした。
アダムの無軌道を止められなかったことが、そうだ。
死んだと聞いて、探し回らなかったことも、そうだ。
彼を失ってしまったということを、どうしても認めることができなかった。
「そういう時間を作るなら、……もう俺はおまえとしか、できないんだよ」
「なんで……」
彼の近くにいる料理人でない人間が自分だけだからだろう? そんな強がりを言う前に、アダムはトニーにとどめを刺した。
「……おまえ以上に俺を愛してくれる人間なんていないからな」
最低だ。
トニーはその言葉を今までで一番大きな声で、言うべきだった。すべて、彼の都合の良いロジックで、反論すべきだった。
もう恋は捨てたと。
期待はしない、と。
夢だって、アダムのそれに合わせれば良いと思っていたはずなのに。
「……僕も……そう思うよ」
それなのに、結局彼を喜ばせる言葉を返してしまった。
なぜなら。
「……よっし!」
彼の目が真っ赤で、何度も空唾を飲み込んでいて、強い視線が不安に揺れているのがわかったから。
また、彼は一番奥の奥の弱さを見せてくれた。
それは料理への迷いではなくて。
生きるための、弱さだったから。
「……少し前まではもっと俺に一生懸命だっただろう……?」
何を言い出すのかと目を見開いたら、瞼と目尻にキスをされて、それでもどうにか見返すと、あのアダムがすがるような表情でこちらを見つめている。
「三つ星を取ったら、僕が君を……お払い箱にするとでも?」
「……」
「本気でそんなことを考えたのか?」
あまりにも馬鹿馬鹿しいと、抗議をしようとするが彼の困惑ともどかしさがないまぜになった顔を見ていると、そうもできない。ようやくデイヴィッドとマックスの言おうとしていたことがわかった。
「本気というか……、冷めたのかとか、子守りが面倒になったとか……色々あるだろう?」
人の気持ちを理解できるようになった弊害だろうか、まるでどこにでもいる凡人のような悩みの告白に、トニーは思わず吹き出してしまった。
そして声を立ててひとしきり笑うと、今度は一転してすっかりふくれ面になってしまったアダムの頬を指先で軽くつまんで、微笑みかける。
「……何だよ……」
「僕に限って、それはありえない」
今ならその馬鹿みたいにきれいな青い目をしっかり見返すことができる。
「……くそっ」
するとアダムは悪態をつき、それから見たことないほどに顔を真っ赤にして、顔を背ける。
隠しても無駄だよ、耳まで真っ赤なんだから。
「わかった?」
「……ああ」
まあ、今日のところはこのぐらいにしておこう、とトニーは小さく肩をすくめて見せる。
何しろこちらは年季が違うのだ。
本当は不安にさせる暇などないぐらいの、愛情を抱えているのだから。
「あー……その、美味かったか……?」
その声はあまりにも不安そうで、少しばかり情けない響きにも聞こえたので、トニーはスマイルとともに「最高だったよ」と耳元で囁いてから、今度はこちらから彼の唇に自分のそれを重ねた。
ついばむようなキスの間に、アダムが言った台詞はしばらく忘れられそうにない。
まあ、彼の言ったことを忘れたことなど、一度もないけれど。
アダムは少し息の上がった掠れた声でこう言った。
やっと笑ってくれたな
あのアダムが、そう言ったのだ。
トニーはこれ以上ない多幸感に一瞬震えが来るほど怖くなったけれど、一人の男が再生したのだと思えばこれも奇跡の一環だと考えてもいいだろう、少しばかり都合よくそう結論付けた。
「おかえり、アダム」
そして、ずっとずっと言えなかった一言を、ようやく口にしたのだ。
おかえり。
ずっと君を待っていたんだよ。