【イリソロ】愛玩動物

こちらもアンソロ(猫ソロ)本に寄稿させいていただいたものの再録にあります。

凝った作りの螺鈿細工のテーブルはずいぶん昔の品だろう。たくさんの安物やまがい物を見てきた元泥棒、ナポレオン・ソロにはそれらとの違いが一目見てわかるものであったが、好みではないのだろう値踏みをするだけに留めたようだ。
ここは、元々シノワズリーの富豪の持ち物だったタウンハウスだ。内装や丁度はほぼそのままに、今はホテルとして使っている。この場所を指定したのはもちろん、上司というべきか、ハンドラーというべきか、英国海軍の男、アレクサンダー・ウェーバリーだ。どれだけ予算があるのかは知らないが、彼が選ぶホテルはいつだって安くない。
「何のようだ、カウボーイ」
祖国に忠実であれとされている男、イリヤ・クリヤキンはウェーバリーの指示に動かされることに慣れておらず、対等に近い関係でのチーム行動の経験も乏しかった。だから未だに常に眠りは浅く留めるように心がけていた。
今朝も目を覚ましたのは朝の四時半だ。眠るのも、他の二人、ギャビーとこのソロが眠るのを待ってからと決めている。寝首を欠かれないために、というほどの強情さはないが、すべてを預けるまでの準備が出来ていないのだ。
ソロはそんなイリヤの様子に一言申してやろう、と尋ねてきたらしい。初めのうちはノックをしていた男も今では何の予告もなく、部屋に入ってくる。彼はそんな時、少しの足音も立てない。普段は嫌味なほどの磨いた靴の踵を高らかに鳴らして石畳みを歩いているというのに。
部屋に入ってくる時は、まるで滑るようになめらかな足取りを見せる。視界に入っていなければ、相当に気を張っているはずのイリヤもすぐには気づけない。
それに少しの違和感を感じはじめたのが数週間前のことだ。そして、ソロに関する資料を改めて取り寄せたのだ。
「ペリル、おまえね。人の犯歴を暇つぶしにしててくれるなよ」
呆れたその声のままの表情でソロはテーブルに広げられた書類を見下ろした。見たくもない記録がほとんどなのだろう、口元には笑みをたたえたままではあったが、眉間には皺が寄る。
「知っておく必要がある」
イリヤには彼の過去を今更断罪するつもりはなかった。しかし、納得が行かないことをそのままにしておくことは出来なかったのだ。
たとえば、聞こえない足音ことだとか。
「おまえの大切な時計は盗らないよ」
その、まるでマジシャンのように鮮やかな手口だとかについて、だ。
イリヤはソロの軽口にはきろりと鋭い視線を返して、
「信頼問題に関わる」
と、続けた。
もし、また彼が捕らえられた時に自分はおそらく助けに行くだろう。それが任務の遂行に必要なことであれば、だ。そんな時、彼の本当に「出来る」ことがわかっていなければ、タイミングも掴めないし、作戦も立てられない。
これが相手がギャビーなら、理屈は必要ない。扉をダイナマイトで吹っ飛ばしてでも救いに行くだろう。元より、危険な任務に彼女を携わらせることには反対なのだから。
「信頼問題ねえ……」
そんなものはじめから存在しない、とでも言うようにぼやくとソロはそのままイリヤの隣に腰かける。それから数枚の資料をつまみ上げて「よく調べてあるなあ」と緊張感のない声で感想を述べた。
「だが、どう考えても理屈が通らないことが多すぎる」
イリヤは建物の見取り図や写真を並べて低く喉を鳴らして唸った。自分に置き換えて考えた時に不可能であることがあぶり出されると非常に面白くない。鍵を開ける技術のあるなしを置いても、あまりに不自然な点が多すぎる。
「……これも、これも……それからそっちもだ」
「ん?」
「どれも、どうやって入ったのかがわからない……、こっちのはどうやって脱出したのかが不明のままになっている」
しかしどの事件もソロが目的を達成しているのだ。
「昔のことだよ、ペリル」
ソロはどうということもないように眉を上げると、ソファに背を預けるような格好になり書類から目を離す。いつもよりくつろいでいる気分なのか、シャツの第一ボタンが外れていた。それを横目でちらりと確認したイリヤはつまらなそうに、ぽつりと呟いた。
「更生したわけでもないだろう」
「迷惑をかけない程度に。心得ているよ」
どうだかな、とイリヤは言い捨てると鋭い視線のまま、書類の精査に戻る。その間、ソロは口を挟むでもなく、イリヤの様子を眺めていた。これが片付かないことには何を言っても眠らないだろう、と踏んだようだ。
その通り。
いい加減、納得出来る答えが欲しい。
しかし、こんなことは……。
「……猫でもなきゃ無理だ……」
思わず口にしてしまった言葉は理論性は欠片もない、世迷い言よりも夢見がちな子供のような考えだった。思わず頬に血が上って紅潮してしまうほどの動揺にソロは気付いたのか、クスクスと笑って、嫌味なほど整った手指でイリヤの赤らんだ頬を指の背でくすぐった。
「おまえがそんなかわいいことを言うなんて」
「……笑うな」
ぐっと歯を食いしばって表情を引き締めようとしたイリヤだったが、上手く行かない。なぜか、今夜に限ってソロとの距離がやけに近いのだ。今まで何度か、様々な事情があって、彼と寝たという経緯があるとしても、こんなことはなかった。
今までのあれは、言うなれば机をひっくり返して暴れるかわりだったり、待機中の暇つぶしであり、訓練のようなものだったはずだ。
目を細めて、こちらを見上げてくる視線にこんな色が含まれていたことはなかった。
と、思う。
ごくり、とイリヤが喉を鳴らすのを待っていたかのように、ソロは口角をきゅっと上げて笑った。それからガチガチに強ばったイリヤの肩を撫でて、耳元でこう囁いた。
「あんまりかわいいからご褒美をあげよう」
低めではあったが、けして掠れることのない極上のベルベットボイスは数多の女性を腰砕けにしてきたのだろう。KGBが把握しているだけでも数十人の名前が上がっている。そのうちの一人の密告により逮捕に至った経験から、今は二度同じ相手とは寝ないと誓っているらしいが。
イリヤとソロは、すでに何度も寝ている。
あくまでそうすることが安全で合理的だから、だ。
おそらく。
そうでなければおかしい。
「茶化すな……」
だから、こんな展開はあってはならないのだ。まるで、彼の魅力に完全に負けてしまったようで悔しくてたまらない。彼の過去の謎を解明することで、彼に手綱をつけることが出来れば良いとも考えていたのに、思惑が外れるにもほどがある。
「イリヤ。いいから、目を閉じるんだ……」
いいこだから、とすぐに幼子に諭すように言う口の利き方も改めさせたかった。これを言われるたびに自分が少しずつ弱くなるような気がしていた。それが彼の作戦だと疑っていたせいもあるだろうが、自分はそれこそ幼い頃から「弱くなったら死ぬ」という教育を受けてきたのだ。
怯えの根源だ、屈っするわけにはいかない。
「10を数えたら目を開けていいぞ?」
それなのに、ずいぶんとソロの声に慣れてしまっていたイリヤは言われた通りに目を閉じた。
不覚ではあったが、とりあえずは言われた通りにしてやろうと両の拳を固く数を数えはじめる。
один……
два……
три……
3を数えるところまでは、ソロの声も聞こえていた。しかし、その先は声が消えて、すぐそばにいたはずの気配も消えた。
восемь……
девять……
「……десять……!」
10を言い終えるのと同時に、イリヤは迷いなく目を開けた。
おい、ソロ!
どこに行ったんだ?という声を出さなければならなかった。ふざけるな、と暴れてテーブルを真っ二つにするのでも良かった。何なら、すべてをなかったことにするために、この部屋を出ていくことも出来たはずだ。
しかし、イリヤにはそのどれも出来なかった。
驚くとか、驚かないとか、そんな生半可なことではなかったのだ。
「にゃあ?」
そこには、それはそれは艶やかな毛並みをした少し大柄な黒猫が座っていた。その猫は小首をかしげるようにこちらを見た後、もう一声甘えた声で鳴いて、すりっと頭から頬にかけてをイリヤのスラックスにすりつけた。
「にゃあん」
それでもぴくりとも動けないイリヤに黒猫は彼の膝に上り、ぐっと体を伸ばして正面からイリヤの顔を見つめてきた。
その目の色は、もう散々と見てきた誰かの目の色とまるで同じ色をしていた。
波のない、夜の海の色。
「……なるほどな……」
何がなるほどなのかは口にしておきながら、納得しているわけではない。声が出ただけでも褒めてもらいたちぐらいだ。
ただ、イリヤは昔むかしにそういう種がいるという機密事項をグラーグにいる時に聞いたことがあったのだ。
その種のための特別な訓練施設があるとかないとか、中には人魚もいただとか、もちろん信じることはなかったし、苦しさの中で何とか現実逃避をしたくて誰かが考えた作り話だと思っていた。
だから、現実にその種が存在していたことに驚きつつも、その事実をKGBが知らないでいる現状に確かにイリヤは安堵した。
知られてはならない。
その瞬間に自分は彼を祖国に差し出さなくてはならなくなるし、おそらく自分が今まで受けた苦痛よりもずっとつらい目に合うに違いないのだ。イリヤは国に忠実であったが、何の期待もしていなかった。彼等は何度も考えられる限りで一番酷いことばかりを強いて来たのだから。
「……何で猫なんだ……」
猫は愛玩動物だ。
彼はそれを上手く泥棒稼業に利用してきたようだが、種としては人間よりもずっと弱い。虎や狼ならば、命の心配をせずにいられるだろうのに。
それに、とイリヤは唇をぎゅっと左右に引き結んだ。それがまるで笑みのつもりでもあるかのように。
しかし、実際のところそこには強ばった固い表情があるだけだ。
イリヤは、まだ指の一本も動かすことが出来ずにいた。
「……俺の手は冷たいから……撫でてはやれないんだ……」
そして、それだけを呟くと頭に左右に振った。弱くて小さな生き物に触れるすべを知らない、と明かしたところで気が楽になるわけではない。いびつな育ち方をしてきたことを悔やむこともできない。
こんな小さくて柔らかな生き物など、この手で触れただけで命を奪ってしまいそうで、怖かった。
こんな男に秘密を明かしたソロは何を思うだろうか。黒猫はしばらくじっとこちらを観察するように見ていたが、やがて飽きたのか、失望したのか、ひざからぴょんと飛び降りてそのままバスルームへと向かい、姿を消した。
遠くでもう一度、鳴き声が聞こえた気がしたが、今のイリヤには顔をそちらに向けることが出来なかった。
少し前まで、彼の秘密を探り彼の優位に立とうもしていた。ソロはそのことに感づかない男ではない。
それなのに、なぜ、命に関わるだろう真の秘密を明かしてくれたのか、イリヤには理解できなかった。
「悲鳴をあげてくれると思ったのに、意外に冷静だったな」
しばらくして、聞き慣れたベルベットボイスが戻ってきた。気が乗らないながらも顔をそちらに向けるとそこには、バスローブを羽織ったソロの姿があった。
確かに先ほどまで着ていた彼の服は床に落ちていたし、猫がそれを引っ張ってバスルームに持って行けるはずもない、
いや、そんなことより。
様子がおかしい。
「俺の一番の秘密を教えたんだぞ?」
彼の頭には猫の名残を残した耳があり、太く滑らかに動く尻尾がバスローブの隙間から見え隠れしていた。
なんてことだ!イリヤはこの場で気絶することが出来ればいいのにと願ったが、あらゆる拷問にも耐えられる訓練を嫌というほど繰り返してきた彼には難しいことだ。
尻尾の動きは猫そのもの。猫を飼ったことがないので、それがどんな機嫌を表しているのかはわからなかったが、緊張などは見て取れなかった。
それどころか、また足音もなく(謎は解決したということになる)近づいてイリヤの呆然と見開いたような格好になった目を見返した。
「……なぜ、俺に教えた……?」
明日にでもクレムリンに連絡するかもしれないのに?
人を信じで生きてきたわけでもないだろうに!
「おまえの寝不足の顔が怖いからさ」
ソロはそう言って、イリヤの目の下あたりをそっと撫でた。
なるほど、爪も伸びるのか。
「……そういう理由なら……了解しよう」
イリヤにはソロが思いやりからそんなことを言っているのか、どうか判断することはできなかった。しかし、最近いまいち顔色が良くないことも、目の下に隈が出来つつあるのも自覚していたので、彼の言い分を飲むことにした。
まるで、本当に彼が心配してくれているように、見えたから。
「そうしてくれよ」
目を細めて微笑んだソロはそのままこちらに顔を近づけてきた。こんなことも今までになかったことだが、イリヤは理屈をつけることにした。
これはきっと猫のする習性なのだ、と。
だから、疑わずに受け入れれば、いいのだと。
「もう少し頭が固いと思ってた、見直したぞ?」
「もう、黙れ」
唇を合わせ、すぐに舌を探ったイリヤの積極的なキスにソロは喉を、まさに猫のようにゴロゴロ鳴らした。そしてたっぷりと口の中を唾液で潤して、離れる時にかりりと唇の端をいつもより尖った歯先を当てる。
「……舌はざらついてないんだな……」
イリヤの小さくこぼした言葉にソロは口角をきゅっと上げた、悪戯猫の顔で笑うと、
「なんだおまえ、猫が好きなんじゃないか」
まるで睦まじい恋人同士のように、頬に唇を押し当てると、
「おまえの冷たい手は嫌いじゃない」
今度はきちんと撫でてくれ、と囁いた。イリヤはごくりと喉を鳴らし、その要望に一応のところ相づちを打ったが、理性的でいられたのはそこまでだった。

「あー……んん、にゃぅ……ん……」
膝をつき、高く上げられた腰。イリヤの剛直はソロの奥の奥までみっちりと突き立てられている。ソロの背中はしなり、甘えた喘ぎがこらえることなくこぼれ続けている。
緩く抜き差しはしていたのだが、それだけでは面白くない、と気付いたイリヤはソロの尻尾の付け根の周囲をほぐすように強く揉んでみることにした。
と、言うのも腰を両手で掴んでソロの中を穿っていると、声よりもさらに正直に尻尾が語っていたのだ。
まるで、馬に鞭を入れるかのようにもっと、もっとと催促してくる。
「あっ……あ――っ、ペリル……そこは……っ」
だから、その要望に応えたまでだ。イリヤはこちらに背を向けているソロには気付かれないようににやりと笑うと、腰を前後させるのに合わせて、いっそう強く、背骨に添ったあたりを刺激する。みっちりと質量のあるソロの臀部がぶるりと震え、たまらないと言った風情で声にならない、鳴き声を上げる。
イリヤの方もうねる内部に少しでも油断すると持っていかれそうだ、と歯を食いしばった。
「はうぅ……っ、にゃう……ん、ん…!あぁ――っ!」
したたた……と、音を立てて白濁がシーツを汚す。
「いつもより量が多いぞ、カウボーイ」
そんなに良かったのか?という言外の問いにもソロは腹を立てることはなかった。それどころか、体の向きを変え、おまえの顔が見たいとさえ口にした。
イリヤはそれに答えながらも、ぴくぴくと動く耳を鼻先でくすぐり、さらに彼の敏感を引き出す。
耳だとか尻尾だとか、それから牙の生え際あたりを舌で刺激した時のソロは、いつものように体を震わせるだけでなく、肌に刺激が欲しいのか積極的にすり寄ってくる。
そして、喉を鳴らし、猫の声で鳴くのだ。
この秘密を他の誰が知っているのかはわからない。ただ、もし、自分だけなのだとしたら、と思うと背筋がぞくぞくする。
恐れと、独占欲と。
ソロに関して始めて感じる、庇護欲で。
「カウボーイ……」
少し上擦った声に、ソロは目を細め、ちちち、と鳥を呼ぶように舌を鳴らす。信頼問題の話をしながらも、実のところ二人の間に言葉はさほど必要ない。
ソロは先回りをするし、イリヤは黙って行動することが多い。
それでもほとんど齟齬がないのだから、不思議な関係だとも言える。
今、ソロが言おうとしたのは「深く考えるな」ということなのだろう。
「癖になるなよ……?」
これは秘密なんだから、と情欲にとろけ、真っ赤にした目元でソロがこちらを見つめた。舌先は悪戯に唇を塗らし、熱い吐息を漏らす。そして、自ら緩やかに腰を揺すり、ねだるように足の先でイリヤのふくらはぎあたりをさすった。
快楽でごまかそうとするつもりなのか、これが彼の種の本性なのかはわからないが、イリヤは彼の誘いに乗ることにした。
今夜のところは。
「……わかった……」
そして、とてもまだ終われない、とイリヤはぐっとその膂力を見せつけるように胸を張って見せる。
「いいこだな」
その台詞が聞きたくて、とは一生口にはしないが、一応のところ自覚はしている。この時のソロの声はひどく優しく響くから。
情交のさなかに弱さを見せるのは危険だと言うのに、嫌っているのと同じだけ、欲してしまうのだ。
弱さを。甘えを。
「……起こすぞ……」
返事を待つ前に、イリヤはソロの腕を強く引いた。つながったままの箇所がぐっと締まるが、余裕の表情で耐えて見せる。
ソロはそんなイリヤをからかうでもなく、呆れるでもなく、目を細めて見つめ返した。言葉はなかったが、それで良かった。
「大丈夫だ」
秘密のことも、寝不足のことも。
これからのことも。
イリヤはそのひとことでまとめると、柄にもなく、ソロの体を強く抱きしめた。
やはりソロからは何の言葉もなく、耳元で熱い吐息が漏れ聞こえただけではあったけれど、一番の正直者が答えをくれた。
大丈夫、またそっちも撫でてやるから。
と、ぱたぱた動く尻尾に目をやり、イリヤはソロの体をそのままの格好で強く突き上げはじめた。
甘い鳴き声に、夜の街を歩くノラ猫たちが集まってきそうだ。イリヤはそんなことを想像しながら、熟れた体を一晩中堪能することに決めた。
明日の朝、かわいい黒猫になっていたら、そうだな。
嫌がって引っかかれるまでずっと撫でていてやろうと思う。

愛玩動物は、かわいがられてこその生き物なのだから ――

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