#CBwriteup 企画に参加しましたー!
CBのお題「軽々しく、両手のひらを握り締める」
キーワード:初夜
SIDE : B
「ヘイ……兄貴、あの時の怪我のせいか?顔色が悪いじゃないか……」
俺は、一週間後、兄貴に会ったら言ってやろうと思ってたいたリストのほとんどをぐっと飲み込んで、青白い顔で立ち尽くす大男に駆け寄るとすぐに声をかける。
地味な黒いステンカラーのコート、斜めがけにしたTUMIのブリーフケース、葬儀屋みたいなネクタイの色、シミひとつない白いシャツ。目の表情を隠す眼鏡。
もったいなあ、ハンサムなのに。
いつからかな、俺は兄貴の顔を見るたびにそう思うようになっていた。再会後もそれは変わらなかった。ゆっくりと姿を現した兄は目を伏せ、口の中でもごもごと言葉を探しているように見えた。
ただ、あの時見たコンバットスタイルの兄と、今の姿はまったく印象が違う。俺にしてみればこの姿は初めて見る兄貴だった。俺の知っている兄貴は昔から着ている間抜けな柄のTシャツにチノパンを履いている格好か、軍服姿だったからだ。
こういう格好をしろと誰に教わったのか知らないが、今の彼の日常服なのだろうと思った。垢抜けていないところも合っているとは思うが、知らない服だ。
俺はそれがいまいち気に入らなかった。
「ブラクストン……」
そんなことを考えながらも、俺はこれがもし何らかの罠なら死んでいるな、と自分でも思うぐらいには無警戒に兄貴に近づいた。そのことに兄も気づいたのだろう、首を横に振ってこちらを咎めるように見た。
父親に習った通りの行動をしろ、と言いたいのだろうが俺は構わず、兄の正面から右に半歩だけ外したあたりに立って、大丈夫か?と尋ねた。伏せられたまつげが作る影よりも濃い、目の下の隈に視線を止める。
三日は寝てねえな?とそう思った。
こちらの機嫌が良かろうが悪かろうが、俺にとっては兄貴の状態が良い状態かどうかの方が大事なことだ。
ちなみに、父の教えは「いつ何時でも周囲の警戒を怠るな」という疑心暗鬼の賜物で、俺は一応のところ素直に「了解」の言葉を返していたものの内心では世界はあんたら(父と兄だ)が思っているよりは平和なんだから臨機応変に行こうぜ、と思っていた。
そして、今の状況はそんなことの一切必要のない状況だと確信していた。
俺は兄貴によって呼び出された街の指定された公園にいるのだから。安全は兄自身が十二分に確認したはずだ。それも不必要なまでの熱心さで。
「大丈夫だ……」
「大丈夫なようには見えないぞ?十年ぶりに姿を見せてくれたと思ったら今度は俺に嘘をつくのか?なあ」
俺は少し意地悪だな、と思いながらも少し顔を近づけて耳元に吹き込んだ。すると兄は眉間にぎゅっとしわを寄せて目を伏せてしまった。顔色はいっそう悪くなっている。
なるほど、理由は俺か、とようやく結論づけることができた。
参ったな、とブラクストンは小さく呟くと、触っていいか?ともう一度耳元で、今度は声を落として囁く。
すると兄貴は弾かれたように顔をあげ、少しだけ早口で「構わない」と言った。
「……俺はさ、兄貴に我慢はさせるつもりはないんだけど?」
昔はこんな風に話していたかな、と俺は頭の隅の方で考えながら会話(になりきらない何か)を続ける。
そうだな、昔は二人で「おしゃべり」することはあまりなかった。俺は兄貴のよくわからない話を聞くのが好きで、興味があろうとなかろうと、黙って最後まで聞いていた。
終わった後に、きらきら目を輝かせて満足そうに微笑む顔を見るのが大好きだったから。
その視界に自分がいようといまいと構わなかった。それなのに、どうだろう。兄貴を探し続けた十数年が俺の何かを歪めてしまったのか、ずいぶんと欲張りになってしまったようだ。よくない傾向かもしれない。
「我慢はしていない」
「だから何でそんな早口なんだよ!」
ついにこらえきれずに吹き出すと、声を立てて笑ってしまう。
「まったく、兄貴は……」
「幻滅したか?」
「ん?」
「ジャスティーンが、そう言った」
俺はとりあえず黙れよ、と言って兄が静かになったことを確認すると、大きなため息ついて、
「ゆっくり話せるところに行こうぜ」
と、促した。
「車に……」
「オーケイ」
俺は兄貴の提案に素直に従う。欲張りになったとは言え、兄貴の扱い方にそう大きな変化は必要がないと思っている。ほぼ確実に彼の中には決められた行動計画があって、それには分刻みに管理されていて、乱されることを嫌う。どうやら社交性を手に入れたようなので、子供の時のように癇癪を起こして暴れ出すようなことはないだろうが、あえて邪魔することもない。
すでに俺の方の計画は兄貴によってめちゃくちゃにされたのだから。
言いたかったことのリストの内訳はこうだ。
まずは、勝手に所属していた民間警備会社に法外とも言えるほどの違約金を振り込み、俺を除籍させたことだ。
この間の大失態の責任を取らされるのは間違いなく、除籍自体は覚悟していたことだったけれど、最後のボスとの通話では、社では死んだことになっているから二度と関わらないようにと念を押される始末で、俺は兄の「本気」を初めて自覚したのだ。
つまり、兄貴は俺を完全な庇護下に置くつもりだということだ。
それが再会の日の翌日のことだった。
三日後には新しい身分、パスポート、ありえない額の入った新しい銀行の口座とキャッシュカード、航空券が届いた。
そこで、非通知の電話がかかってきて電子音声の女があれこれと俺に指示をくれた。彼女の名前がジャスティーンだ。幼馴染というほど親しくはしなかったが、見知らぬ人間でもない。ただ、幼少期に何度か顔を合わせたことのある、女だった。
俺のような凡人には理解しがたい領域があって、凡人の安全圏からは逸脱してしまうが、兄貴や彼女はその特別な場所でまるで魔法のような力を発揮することができる。俺はそのことを幼少期からよく知っていた。だから、今更驚くことはなかったが、それでも。
たった一週間で。
俺の苦しんだ十年間が、まるで子供の遊戯だったとでも言うようになかったことにされたのがとてつもなく辛かった。わかってくれと恨みがましく言うつもりはないが、虚しくはなる。当然だろう?
俺はどれだけ兄貴の姿を追い続けたと思っている?
本当に、本当につらかった。この世界にすでに兄貴がいないかもしれないことを考えては胃をねじれさせていた。悪夢に次ぐ悪夢に嘔吐した夜も一度や二度ではない。
毎日少しずつ世界の色が消えて行くような気がしていた。わからないわけではない、認識はできている。それでも、目に飛び込んでくる色はどんどん減っていって、もうここのところの俺に残されている色は「ブルー」それだけだった。
「幻滅はしてねえよ……」
助手席に収まって、俺は長いため息をついた。本心で、早く兄貴を眠らせてやらなければならないと思っている。優しい言葉をかけてやるべきだ、とも。
俺にはそれができるし、そうしてやりたいと思っていた。
でも、なぜかそれが出来ない。
「ただ、やっぱり期待するのはやめておく。これは俺の自衛だから気にしないでくれ」
結局、そう短くもない沈黙の後で口にすることが出来たのは突き放すような、こんな台詞だけだ。
兄貴も兄貴なりに傷ついているのかもしれないが、俺はもう瀕死だったんだ。
今度何かあったら多分、もう、無理だ。
そのことが兄には絶対に理解できない。安全だとか、そういう話ではないのだ。たとえ、火の海の中でも兄貴が呼べば飛び込む。それが俺だし、躊躇も後悔もしない。
弟を守りたい、それが義務だと思っている兄の愛情と、俺の中で歪んでしまった愛情の形は違うのだ。
「……ブラクストン……」
ぎりっとハンドルを握る手に力がこもる。理解の範疇を超えた俺の話に不快感を抱いているのだろう。まあ、NTが聞いてもすんなりとは受け入れられないだろうよ。
俺は今、酷いことを言っている。
自分自身を守るために。
「俺はあんたの……」
YOUをあえて強調して、俺は前を見たまま少し強い語調で続けた。
「あんたの、愛している、を信じない」
どうせ、声に出しては紡がれない、幻のアイラブユーだ。
「……それでも、俺はあんたを愛しているし……また会えて、本当に嬉しいよ……」
兄貴は何も答えなかった。ただ、聞いたことがないぐらいに呼吸が浅くなっているようだった。
へえ、ノーダメージかと思った。
「で、俺はどこに連れていかれるわけ?あの金で家を探せってことか?」
「違う」
また、早口だ。今度は少し吐き捨てるように、荒々しい。
「部屋を用意した。一緒に住もう」
これも用意してあった台詞なのだろう、早口で言うだけ言うと兄貴は車のエンジンをかけた。
ヘイ、ジャスティーン。
俺が何に幻滅したかもしれないと思ったんだ?
「……それを俺が喜ぶと思ったんなら、あんたずいぶん前向きになったんだな。良いことだ」
逆だよ、ジャスティーン。
これから兄貴が俺に幻滅するのさ。兄貴がこの十年、成長したこと、できるようになったことを知って上手に喜ぶことができない俺に。
狭量だと、呆れ返るに違いない。
「……僕にはわからない……」
「ああ、そうだろうな」
俺はもうこの話は終わりだと言うように膝でダッシュボードを軽く蹴り上げ、車を出すように促した。兄貴は息を飲んで、それからぐっと唇に力を入れた。視界の端でそれを確認しつつ俺は肺の中から苦くて重たい息をゆっくりと吐き出した。
こんなことを言うつもりなんかなかった。
だけど、俺の世界はまだブルーのままだったんだ。あれだけ会いたかった兄貴に会えたと言うのに。
だから、まだ俺は。
瀕死のままなのさ。
SIDE : C
今日もブラクストンはジャスティーンと電話をしている。
ここのところ、毎日だと思う。彼女はブラクストンのことを「バターカップ」と呼ぶことに決めたと言っていた。意味を問えば、お転婆ちゃんね、と言われたが僕はそれがブラクストンに似合っているのか、わからないでいる。
ブラクストンは昔から僕の前ではあまり口を開かなかった。とても静かにしていた。
僕が話し始めるまで待って、僕の話を聞いて、それからやっと話しはじめる。それは小さい頃からずっとそうで、僕はそれを当然だと思っていた。僕は話したい時は夜中の遅くまでずっと話していられたし、ブラクストンはその話を必ず最後まで聞いてくれていた。
そして、朝寝坊をして父さんに叱られていた。僕のせいだ、と言おうとしたがブラクストンは人差し指を唇に当てて黙っているように合図を送ってくれた。だから、いつもブラクストンだけが叱られることになった。スクールバスの中でそのことを謝ると、彼は僕の声を聞いていたかったからいいんだよ、といって、楽しかったと笑ってくれた。
今になって考えれば、十歳にもならない当時のブラクストンに数学の定理の起源を聞かせたところで楽しいと思えるはずもない。嘘をついていたとは思わなかったが我慢をさせていたのだろうと思う。
その考えもまた、大きな間違いだと気付かされたのが二ヶ月前の偶然の再会だ。
僕はブラクストンの自由と安全のために自分から遠ざけた。しかし、結局は彼を日々危険の縁に置くことになってしまっていたのだ。秘密裏に彼に大きな危険が及ばないように監視をしていたが、それでも万全ではなかった。
何よりも、僕自身が彼に最大の危険となったのだ。
彼をおとなしくさせるためとは言え、僕はブラクストンに銃口を向けてしまった。引き金を引くつもりなどなかった。それはブラクストンもわかってくれているとは思う。
それでも、あの怯えきった目を僕は忘れることができない。
あれから、毎晩夢に見るのだ。
夢の中のブラクストンはけして笑ってくれない。泣いているか、怯えているか、苦しそうな顔をしている。
僕はあの日以来、上手く眠れなくなってしまった。
「まだ鍵外してくれねえんだよ」
それから、こないだのブラクストンの言葉が耳に残って、起きている時でも動揺に襲われる。今もすぐ傍で繰り広げられている会話の声に聞き耳を立てながら、指で机を叩いている。
僕は、ブラクストンの安全のために。
彼のために用意した部屋の外に鍵をつけた。僕が注意を払えない時間に出歩いてしまわないように。
窓も防弾加工してあったし、どの通りからも目が届かない位置にある。人感知センサーもカーペットの下に仕込んであり、床下には小さいながら数日は隠れていられる程度の蓄えを置いたシェルターを用意した。
元より部屋の中にバスルームもあり、快適に過ごせる客間であるはずだ。今まで自分一人のための家より大きく広さ、設備を備えた物件を探すのに少し時間がかかったが眠れなくなった分時間はあった。
喜んでくれるとは思わなかったが、昔のブラクストンなら僕の努力を褒めてくれたと思う。
だから、悲しいと思った。
今のブラクストンは僕の努力を、愛情を、何一つ信じようとはせず、エゴだと思っている。
僕も、エゴを否定しない。僕は彼が何を望んでいるのか、一度も聞いていないからだ。
今からでも聞くべきだとジャスティーンは言ったが、僕は頑なに拒んでいる。
なぜか?
それは、ブラクストンが僕に幻滅し僕のことを愛することを止めて僕から離れたいと思っていることを知るのが怖いからだ。
今はまだ愛していると言ってくれる日もあるけれど。
それがいつなくなってしまうのか、わからない。
おそらく時間の問題だ。
「ヘイ、兄貴。ジャスティーンがやり過ぎだってよ?」
僕はその声に目を伏せ、かすかに首を横に振る。
僕は毎晩、ブラクストンが部屋に入ったのを見届けて、外から鍵を閉める。それからその部屋から生活音(トレーニングをしたり、シャワーを浴びたりだとかだ)がしなくなるまでその場で見守っている。
おやすみ、ブラクストン。
静かになってようやく、その一言だけを口にして自分の寝室に戻り、眠れない夜と対峙するのだ。
僕はもう二度と。
ブラクストンの笑顔を見ることができないのかもしれない。こんなことなら、準備だとか安全の確保だとかを優先せず、あのまま、膝を抱えて泣いていた弟を浚って逃げてしまえば良かった。
僕になら、きっとそれでも上手くできた。
そう思う。
「んー、それはもうちょっと先だな。考えちゃいるけど」
まだ会話は続いているようだ。僕はその内容が知りたいと思う気持ちより、不安で押し潰されそうな気持ちの方が大きくなってきてしまったので、その場を離れてしまうことにした。
僕は何もかもしくじってしまったのだ。
どこからやり直せばブラクストンは許してくれるのか、考えなければならない。
もし。
子供の頃からと言われたら、どうすればいいのだろう。やり直すことが出来るのならば、僕はブラクストンのおしゃべりを聞いてあげたい、そう思う。
僕しか楽しくない数字の話ではなくて。
ブラクストンの話したいことを話して欲しい。
「僕はブラクストンを愛している……」
リビングから抜け出すようにして、廊下に出た僕が呟いた声は誰にも届かない。
喉を鳴らして笑うブラクストンの声。
とても楽しそうだった。
「……愛しているんだ……」
僕は眉間に皺を寄せ、もう一度繰り返すと突き刺すような痛みを訴えてくる胸のあたりに拳を押しつけることしか出来なかった。
今日はどこかブラクストンの行きたいところへ行こうかと声をかけるつもりでいたけれど、とても言葉に出来そうにない。
言ったところで、ブラクストンが喜ぶとは思えない。
僕は、やはりしくじってしまったのだ。
ともすれば、もうずっとずっと昔に。
SIDE : B
ほぼ自宅軟禁の状態も続けば日常になってしまう。
俺は日々を兄貴の出勤に合わせてでかけて、何となく仕事を手伝って(たいしたことはやっていない、愛想笑いと電話番ぐらいだ)、日用品の買い出しに行き、帰宅する。卵は毎日新鮮なものを、牛乳は週に一本だったらしいが、俺が来たから三日に一本買い足すようになったと言っていた。
そんな日々を繰り返すことが当たり前になりかけていた。
俺は暇つぶしにジャスティーンと話したり、テレビでスポーツ観戦をすることもあったが、ほとんどをぼうっと無為な時間を過ごしていて、ただでさえ少なかった会話はますます少なくなった。
本当は色々聞き出そうと思っていた。十年の間の出来事もそうだ、裏稼業のこともそうだ。今後俺はどうすればいいのか。
これからが何も見えない。
期待をしない、多くを望まない、兄貴が俺に興味を失うまではこうしていられる。そういう綱渡りでじわじわと神経がすり減ってはいたが、どこにもいない、と思うよりは少しはましだった。
「無理するなって……」
俺は店の外で置物のようになって待っていた兄貴に呆れた声をかける。目を伏せて、少しも動かず、ただそこにいるだけ。それに何の意味があるのか俺にはわからない。
それでも、兄貴は俺の行くところについてくると言って聞かなかったのだ。
俺はほとんどの私物を処分せざるを得なかったので、新しく買い出しに街中までやってきた。
それも車で三時間半ほど行った大きな街だ。
とにかく時間がかかるということと、荷物が多くなること、一日で済むとは思えないので一人で出かけると何度も言ったのに、兄貴はそれを許さなかった。
そしてハンドルすら譲らずに、今に至るわけだ。
半日ほどの買い物を経て、すでにトランクはいっぱいになりつつある。自棄になったように買っているからということもあるが、店の中にいる間だけは兄から離れることができたからだ。
兄貴のことは今でも変わらず愛している。探し続けた日々のことを忘れるわけもなく、二度と離れたくないとは思っている。だから、俺がこのまま彼の前から姿を消すなどということはありえない。
家にいる時だってそうだ。外側から鍵をかけられるなんて、あれだけ厳しかった父にだってされなかった。
あの一件で、兄貴の中で譲れない何かが出来たのはわかるけれど、さすがに意図が読めない。やりすぎというのもあるし、そこまでしておいて兄貴が安心した様子が少しもないものだから。
俺はどうすればいいのか、わからなくなってしまった。
「大丈夫だ」
「大丈夫な顔をしてから言えって……」
ああ、もう。
俺は新しいジャケットとスラックス、シャツを三枚ほどをさらにトランクに詰めこむと、頭を振った。
ずっと、兄貴は上手く眠れていないようだ。ジャスティーンにも相談したが、彼女も理由はよくわからないと言っていた。医者にかかれと言って欲しいと頼まれたが、この通り、兄貴は何を言っても大丈夫、としか答えない。
俺が近くにいない方がいいんじゃないか、という提案も二人で出し合ったが、兄貴が首を縦に振るわけもなく、いっそう監視が厳しくなった。近所のダイナーにすら、必ずついてくるようになってしまったのだ。何一つ食べられるものがないのに、だ。
「もう帰ろう。必要なものは買った」
それに距離が近い。
「靴も欲しがっていた」
あそこに靴屋があった、と兄貴は指を差したが、もう密着と言って良いほど寄ってきている。肌には触れていないが、俺が背伸びでもすればキスの距離だ。
キスだって?
それぐらいに、近いってことさ。
あの、接触を得意としない男が、だ。
「でも、いいよ」
一歩下がると、一歩と少し近づいてくる。
結果、より距離が近くなる。
「ブラクストン、まだ……足りない。他にもトレーニングウェアを買うと言っていたじゃないか」
ちっ、と大きく舌打ちをして俺は足を引いて、兄貴の方に向き直ったが、すぐにまた距離を寄せられる。
何だって言うんだよ。
「ジャスティーンから聞いたのか?盗聴したのか?俺は兄貴に何が欲しいって言ったか?」
兄貴は俺の指摘に口を噤んで、盗聴を認めた。とは言え、言葉には出せず目を伏せて小さく頷いただけだ。
「じゃあ、ホテルで休んでろよ。どうせ取ってあるんだろ?」
「ああ……」
ここだ、と差し出されたカードに肩をすくめた俺は、あとでな、と念を押すようにじっと兄貴の眼をすぐ近くから覗き込む。
兄弟で泊まるようなホテルではない。幹線道路沿いのモーテルでだって構わないのに、ずいぶんと老舗の名門ホテルを選ぶところが、彼らしい。シャワーの水圧と湯温、リネンにこだわりがあるのだろう。
「ブラクストン」
「ん?」
「……他の色の服は買わないのか……?」
もう中身もチェックしたのかよ、と舌打ちをした俺は兄貴をきろりと睨みつける。針が残っていたら困るだとかいう間抜けな言い訳は聞かないぞ、とばかりに。
しかし、兄貴は珍しく目を逸らすことなくこちらを見返した。
「青ばかりだ……」
その言葉にさっきよりも大きな舌打ちをした俺は、さらに視線を尖らせた。
誰のせいだと思っているんだ、と言いかけたのはどうにか堪えることができたが、どうだろう。
一度、はっきりと決着をつけるべきなのかもしれない。
それで、負けたらどうするんだ?ブラクストン。
おまえはまた一人になるんだぞ?
「俺さ……」
深い呼吸をどうにか繰り返し、気を鎮めるとゆっくりと口を開く。
「色盲とかじゃないんだけどさ……」
そして笑う、とまではいかなかったが少しだけ頬を緩めて微笑みに近づけようと努力する。
こんなこと、言うつもりはなかった。
まるで当てつけじゃないか。
「青しか見えない時があるんだよ」
もう、ここのところずっとさ。
そう口にした俺に兄貴は悲しそうに眉根を寄せた、ように見えた。
「……ブラクストン」
「大丈夫だ、心配するな。きっと時間が解決してくれるさ」
俺は兄貴の肩に手を置こうとして、やめた。手を引いて、肩をすくめるといっそう深い皺が眉間に刻みこまれた。威圧感を感じるほどに近くにいるのに、会えなかった時よりもずっと遠くにいるような気がした。
「僕と会っても、変わらないんだな……」
その台詞を、兄貴は自惚れで言っているようには見えなかった。どこか呆然自失したような、上の空のような言葉に聞こえた。
だから俺は何も答えることができず、また舌打ちを繰り返す。
「もう僕は必要ないのか……」
兄貴の声に俺は小さく頷き、そうだな、とこぼす。
「そうならないといけないのかもしれないと思ってる……」
その準備段階なのかな、と続けると兄貴はみるみるうちに顔色を失っていく。
「……そうか」
その声は高いところで掠れた。
「とにかく今のままじゃ……、駄目だ。そうだろ?」
俺はとりあえず何とかスマイルを作ると、兄貴の肩を軽く叩くと大きく後ろに下がった。そして、次の言葉を聞く前に背を向け、歩き出す。
「……青しか見えないんじゃ、兄貴の目の色だって……忘れそうさ……」
呟いた声に涙がにじむのを感じ、俺は無理に咳払いでごまかす。
ここで泣いてしまうのは、反則だ。
俺だって、一人で生きられることを証明しないといけないのだから。
兄貴が、安心できるように。
SIDE : C
「ヘイ……、眠いのか……?」
ゆったりとしたブラクストンの声が聞こえる。昔に聞いていたような、優しく、穏やかな声だ。甘く響いて聞こえるのは、僕が強くそう望んでいるからかもしれない。
久しぶりに。
良い夢を見ている。このまま終わって欲しくないと強く望んでしまうほどの、良い夢だ。
「襟を緩めるぞ?」
僕に向けられるブラクストンの声が、こんなにも優しいなんて。
本当に良い夢だ。
「大丈夫だ……」
「こら……、兄貴はすぐに大丈夫だって言う……」
ブラクストンがこちらに顔を近づけてくる。そして、頬を指先でたどってくれた。
彼から僕に触れるのは本当に久しぶりのことで、だからこれが夢なのだと僕は確信を深める。
僕は浅ましくも、まだこんな幸せな日が来ると願っているのだ。ブラクストンを傷付け、失望させたというのにまだこんな夢を見ている。
僕は、弟を守りたいと思っている。
でも本当にそれだけだろうか?
それだけのことで部屋にシェルターを?ドアの外に鍵を?
ジャスティーンが何度も僕に問うたが、答えたくなくて電話を切ったことも一度や二度ではない。
「……兄貴……?起きてる?」
僕は、それでもまだ、二度とブラクストンを手放したくないと願っているのだ。
なぜか、と何度も問うた。
そして、理由はもっと単純なところにあったのだ、ということにようやく気付いたのだ。
必要ないとまで言われて、ようやく。
こういう人間を間抜けと言うのだろう。
「ああ……、起きている……」
僕は今、微笑んでいるのだろう。上手く行ったと思うのは、現実ではないからだ。手を伸ばせばすぐに弟の頬に触れることができた。手の平を押し当てて、親指で目の下を少しだけこすった。
今日のブラクストンは泣いていない。
僕を見て、怯えた顔もしていない。大きな黒い目でじっとこちらを見ているけれど、その視線は別に不快ではなかった。
キラキラと光が差し込んで輝いている。子供の頃はそれをずっと見ていたくてブラクストンの隣に座った。好物を甘い物を食べている時は僕のことをあまり構わないので、存分に眺めることが出来た。
その時と同じだ。
「ふふ……、どうした兄貴……」
口角も上がっている。柔らかいだろう唇がゆるやかなカーブを描いているのがわかる。
触れてみたい、そう思う唇だ。
「おまえが……笑っている顔が見たかった……」
安全であれば、それが叶うと思った。
僕に会いたかったとあれだけ言っていたから、僕と一緒にいられるなら笑ってくれると思った。
それがついに大きな間違いだとわかったから、今このまどろみの中に浸っていたい。あと五分でもいい、できれば十分。
一晩中なら、なお良い。そうすれば、彼を自由にしてやることができるだろうか?
彼に、色を取り戻してあげることができるだろうか?
ブルーはブラクストンによく似合っている。だけれど、悲しい色だと言うのなら、着ないで欲しい。
「今日は笑ってやるよ……」
「……どうして……?」
目を細めて、ブラクストンは微笑む。そして僕の手の平に頬をすりつけるようにして、機嫌が良くなった、と言ってくれた。
「……かわいいな……」
その表情に僕は素直に思ったことを口にする。三十も半ばをすぎた男に言う台詞ではないのだろう。統計があるとしたら、そういう答えが導き出される。
だけれど、これは統計ではない。
僕の、僕の大切な感情だ。ブラクストンのくっきりした二重瞼に長い睫をじっと見つめた。僕を気遣って何度も瞬きをして、少しずつ視線をずらしてくれているけれど、今は夢だから大丈夫だと言いたかった。
「とても、かわいいと思っているんだ……ずっと……、いつも……今もだ……」
少し潤んだ瞳に、僕は泣かないで欲しいと、訴える。
せっかく笑ってくれたのに。
「……兄貴がそんなこと言うなんて想像もしてなかった」
ブラクストンは驚いたように目を見開き、いつも以上に大きな瞳を見せてくれた。
「……僕はいつも思っているんだ……」
言い聞かせるように今度は両手でブラクストンの頬を包みこんだ。指先に少しだけ髪が触れる。
「マジで……?」
掠れた声に涙の色も、悲しみも見えない。僕はそれに少しだけ安堵し、これは現実ではないという認識から、思っていることを自然に口にすることができた。
「僕は……愛しているんだ……」
ブラクストン、おまえを愛している。
「俺もだよ」
幸せそうに笑うブラクストンに僕の胸は締め付けられるようだった。こんな笑顔を見ることができる日が来るとは思わなかった。
僕は、頬から手を放し、今度は肩と腕を掴んでゆっくり自分の方に引き寄せる。
僕の体の上に、ブラクストンが乗るような格好だ。重くないか?と眉を寄せながらもブラクストンの頬は真っ赤になっていて、目も潤みはじめる。
ちっとも重くなんかない。
僕はそう言ってから、ゆっくりと息を吐く。
「……でも、きっと……また僕の愛情は違うって……目が覚めたらおまえは言うんだ……」
つとめて深い呼吸を繰り返しながら、ブラクストンの体をしっかりと抱きしめる。これが、正しい形かどうかはわからない。
でも、きちんと出来た。
僕は普通の人間のように、愛しいと思う相手のことをしっかり抱きしめることができたのだ。
「ん……?」
今度はブラクストンが僕の頬に手を添わせてくれた。その感触は、肌をざわつかせたが少しも嫌ではなかった。もう少し強く、押し当ててくれてもいいぐらいだ。
ブラクストンの体温は、少し上がっているようだ。
「でも、僕は……願ってた……こんな風におまえが僕を愛してくれればと……」
ブラクストンは僕のこの言葉に少し身を乗り出して、顔を覗き込んでくる。僕は目を上げ、少し視線を外すと、これは僕の願いだ、と喉から絞り出した。
「僕は、ブラクストンを愛しているから……」
ブラクストンは小さく頷いて、知っているよと言ってくれた。
僕のエゴを知っているのに、優しく目元を指先でたどって、こめかみをくすぐるようにした。僕はその感触に少しだけ頬を緩め、祈るような気持ちで目を閉じた。
「ずっと、この夢を見ていたいんだ……」
幸せな、夢だ。
僕が望んだ、夢だ。
目を開けると、あたりはすっかり暗くなっていた。体を起こすと、自分がホテルのリビングルームにいること、大きなソファの上だと言うことを把握する。クッションは四つあったが、すべて床に落ちている。
やはり夢だったのだということに気付かされて、深いため息をついた。
「起きたかー?」
そこへ、久しぶりに明るい声がかかった。ブラクストンが戸口から顔を覗かせている。さっきまで着ていた服から着替えて、Tシャツにスウェット姿になっている。
僕の知らない服だ。別れてから購入したものだろう。
「……昼寝なんて久しぶりか?」
「あ、ああ……そうだな。ずっとあまり眠れなくて……」
知っている、とブラクストンの表情は言っていたが、
「なんで?」
あえて尋ねることにしたようだ。
僕も、これ以上隠し通すことはできないと、わかっていた。
「僕は……」
ブラクストンは近くに行くから待ってろ、と言って軽くソファを飛び越えて、僕の目の前に立った。
そして落ちていたクッションの一つを抱え、そのままカーペットの上に座り込んだ。
昔みたいだった。
よくこんな風に座って僕の話を聞いてくれた。せっかくだから楽しい話をしてやりたいが、それもできない。
「夢の中で、いつも……ブラクストンは僕を恐れて、怯えている。泣いている。僕は助けられなくて……」
それは、おまえが僕を恐れているからだ。
僕の差し伸べた手を、おまえは取らない。
「兄貴……俺は……」
違う、というようにブラクストンが首を横に振るが、もう限界なのだろうと思う。
早く、おまえを自由にしてやらなければ。
できるかどうかはわからないが。
「あの時、銃を向けるまでする必要はなかった。止めるタイミングはあった。それなのに僕は……」
指先が震えて、喉に言葉がつっかえてしまう。じんわりと滲む汗に、僕は一度深く目を閉じる。
「兄貴……あれは、俺を大人しくさせる手段だった……俺はちゃんとわかっているんだ」
本当だよ、とブラクストンは夢の時と同じぐらい穏やかな声で囁くように言って、目を開けてと促してくれた。
「それより、今日はどんな夢を見たんだ?」
そして、優しい顔で見てくれていた。僕はとても愛おしく思えて、嬉しくなった。
「……幸せな夢だ……」
毎日、こんな顔がみたい。
でも、そんなことを望んで良いのかがわからない。
「まるでブラクストンが……僕を愛してくれているようで……」
とても幸せだと思った、と呟いた僕は黙ったままブラクストンの顔を見ることが出来ずに、息を吸う前に早口で続けた。
「でも、おまえは僕の愛情を信じられないと言った」
きっと僕がエゴイストだからだ。
何もおまえに与えてやれない。
「なあ、兄貴……えっと……、やりかたがおかしいのには気がついてる?」
ブラクストンはどうやら抱えたクッションの上に顔を乗せているようだ。
「わからない……」
「じゃあさ……今日は俺とおしゃべりしよう?長くなるかもしれないけど」
「わかった」
そして、夢の時のような穏やかな声で話を続けてくれる。
「いい部屋だよな?」
「……僕はこういうホテルが好きだ。買い物は済んだのか?」
「はは、青ばっかりな……」
元から好きな色なんだよ、と言うが僕の胸はまた苦しくなってしまう。
「……そうか」
僕が、ブラクストンから色を奪った。
僕が、彼を絶望させたから。
「でも……明日は違う色買えるかも……?」
それなのにブラクストンは、優しい嘘をついてくれる。まるで、僕のことを愛してくれているように聞こえる。
「それなら僕が選ぶ。ブラクストンに似合う色はいっぱいある……」
「じゃあ、選んで?」
「わかった」
決まりだ、とブラクストンは笑って立ち上がり、ルームサービスを取るとメニューを探し出す。
「何にする?」
「僕は大丈夫だ」
寝起きだからというだけではなく、頭の奥の方がまだ混乱しているようだ。
「大丈夫は禁止」
夢の中でもブラクストンは、そのことで僕を叱った。
正夢だったら良かったのに、そう願わずにはいられなかった。
「……それならフルーツを」
「よし来た」
俺も食べる、とにっこり笑った顔は僕の大好きな笑顔だった。
あと、何回見ることができるのだろうか。
それは僕の判断することではない。その事実だけが僕の胸をまた容赦なく締め付けるのだった。
SIDE : B
俺は父親から、感情をけして軽んじるなと教えこまれてきた。それは他人のものでも自分のものでも、同じことだと。感情がこじれると冷静な判断を失う。
だから、まず自分を安定させろ。
考えるのも、誘導するのも、支配下に置くのもそれから、だと。
俺はそれを兄貴と再会してから、すっかり忘れていた。昔なら叱られていたかもしれないな。
大丈夫だ、今は久しぶりに落ち着いている。
「なあ、兄貴……?」
ルームサービスで頼んだちょっとしたご馳走を食べ終えた俺は念入りに歯を磨き、顔も洗って、それからリビングに戻った。そして、待っている間にまた何か不安になったのか、眉間に皺を寄せ落ち着かない様子でソファの真ん中に座った兄の隣に腰を下ろした。
すぐに体の向きを変え、兄貴の膝の上に俺は両脚を投げ出した。靴は脱いだぞ、どうだ?
一瞬、眉を上げたように見えたが、嫌悪感はないようだ。目の前の俺の膝頭をじっと見つめて、それからおもむろにそこに触れた。手の平で、しっかりと。そして、ゆっくりとそこを撫でだした。
トレーニング用に買った薄手のハーフパンツの下に本来履くべきレギンスは履いていない。今日の寝間着の替わりに着たものだ。
兄貴は夢を見ていたとまだ思い込んでいるようだ。
せっかくだからそのままにしておいてもいい。俺はもう十分過ぎるぐらい満足しているからな。
そう、兄貴があれこれおしゃべりしてくれたことは一言一句暗記したいぐらいに、俺の欲しかった言葉ばかりだった。さすがに「かわいい」と言われる日が来るとは思わなかったけどな。
「酷いこと言っちまったよな……」
「……僕は必要ないと……」
必要としないぐらい強くなりたい、というのが本音だったが、やはり兄はその部分を強く、深く、受け取ってしまっていたようだ。
そんなことないから、と俺は言い直し、兄貴の手の甲あたりに視線を落とした。膝頭を手の平で撫でる様は犬猫にするような仕草だったが、肌触りの問題はないのだろうか、少しずつその範囲を広げていく。
「ただな……?一週間で俺を兄貴はあっという間に支配下においただろう?」
「……そんなつもりは……」
「嘘はつくな。我慢もするな。本音ベースでいこう」
「……わかった」
一瞬、動きを止めた手が再び動き出す。膝から脛に向かい、そして戻ってくるを繰り返す。
俺はくすぐったいと思うより先に、体が少しずつ体温を上げていってしまうのを感じ、少しだけ奥歯に力を込めた。
まずは言わなければならないことが、先だ。
「俺は、兄貴の傍にいたいけど……、役立たず扱いされるのはごめんなんだ。俺は俺でちゃんとしたい……守られてるだけなんて、耐えられない」
兄貴の中で弟は庇護するべきだ、と確定していることはわかっている。でも俺は深窓の令嬢でも何でもない。
「それぐらいなら、もう二度と会わない方を選ぶって話だ」
だから、ここでくじけるわけにはいかなかった。俺の世界には兄貴しかいないけれど、望むものも求めるものも兄貴だけだけれど、役立たずのままでいたくはなかった。
足の上を滑る手に、少しの震えが走ったのがわかった。
「兄貴はどうしたい?」
「……二度と離れたくない……、僕が望むのはそれだけだ」
声も震えているぞ、兄貴。
言ったろう、嘘はなしだ。
「やりすぎも……認める」
「だろ?」
帰ったら鍵を外してくれ、と念を押すように言うと、少し視線を泳がせる。
「約束」
「……わかった」
「よし」
これで話はおしまいだ、とは言わなかったが、最低限の意志の疎通は出来たと思う。
あとは、この想像もしていなかった手の動きについて、だ。兄貴はついに手の平を足首にまで伸ばし、肌にしっかりと圧を感じるぐらいの力加減でなで続けていた。
少し、足を引こうとするともう片方の手で膝の上あたりをぐっと抑え込む。
なるほど?
「……膝がかわいい……」
そして、口にしたのがこれだ。
膝を撫で、それから足の甲も骨の上を指先でしっかりとたどっていく。
「……兄貴、やめろって……」
指の一本、一本も丁寧につまむようにもんだ。快感、というほどの刺激ではない。マッサージというより技術的でもない。
口元がだらしなく緩んでしまうのを隠すように俺はわざと膨れ面を作った。
「もう少しだけだから……」
兄貴のもう少しだけ、というのは信用ならない。興味の対象となったらしつこく追求し続ける性質を持っている。このままでは両脚を余すところなく撫でられてしまいそうで。
「やめないと……、キスするぞ?」
だから、俺は太くはっきりとした線を引いてしまうことにした。
これで、完全に決着する。
「……ブラクストン」
はっと顔を上げた兄貴の表情は、どこか呆然としていて途方にくれているように見えた。
ああ、そうか。
やっぱり微妙に形が違っていたんだな、と俺が落胆とともに決着させようと思っていたところで、
「いいのか?」
上擦った声が返ってきた。震えてもいた。
「え……?」
今度は俺が呆然とする番だ。まさか、そんな確認が返ってくるとは思ってもいなかった。
「ジャスティーンが兄弟でそういうキスはしないものだと」
「ったく、……そういう相談はするなよ」
「僕には彼女しかいない」
まあ、それはわかる。
わかるけどな?
そのせいで、俺は十数年兄貴を探し続ける羽目にもなったわけだから、ええと。
まあ、彼女とは俺も楽しく話しちゃいるけどさ。
それとこれとは別で。
「んー、それは妬ける言い方だな」
つまりは、こういうことだ。
「……難しいな」
すると兄貴はそう言って、少し唇を開いて、歯を見せて笑った。目尻に寄った皺で急に人間味が増す。
そうだな、かわいいなって思う気持ち。
こんな時はわからないでもないな。
兄貴も、十分にかわいい。
「……お互いが同じ気持ちならいいと思うけど」
僕は同じ気持ちだ、と言った兄貴は小さく頷くと、俺の膝の下に腕を入れ。何だ?と思ったらもう片方の腕を背中に回し、俺の体を折りたたもうとした。
無理矢理に膝を抱えるような格好にされ、俺は動揺して少し暴れてしまうが、びくともしない。
俺には俺の出来ることを探そう。
肉弾戦で彼に勝てることは二度とないということだ。
「えっと……あ、兄貴……?」
出来ない事はない体勢だ、だけど苦しいぞ?
「ブラクストン……」
そして、すぐ目前に顔が近付き。
愛しているんだ、という言葉とともに、唇が俺のそこに重ねられた。
まあ、重ねただけというか。
つまり、これは兄貴の知る唯一のキス、だ。
なるほど。
「……あのさ、兄貴」
俺はまずそこの指摘を後回しにすることに決め、今度はこちらから、ふにっと柔らかく唇を押し当てる。
たぶん、十二、三歳で経験するファーストキスだな、これは。
「いやだったか?」
淡々とした口調だが、視線のさまよい方が兄貴の不安の証左だ。だから俺は安心させてやるように、頬にも、目尻にも、今の格好でどうにか届く範囲にキスを送る。
食事した後だから、本当に苦しいんだけどな。
まあ、圧迫されるのは、うん。
悪くない。
かなり、悪くない。
「あのな……、さっきのは夢じゃなかったんだ。ちゃんと俺とした会話だよ」
動揺に体を揺らしはじめる兄貴に俺は、小さく首を振って、大丈夫だ、と囁く。
これは本当の「OK」だから安心して欲しい。
「だから、俺は……今すごく幸せだ」
愛してるよ、兄貴。
もう少しおしゃべりする?
夢の中の会話を反芻しているのか、ぶつぶつと何かを唱えだした兄貴に俺は極力穏やかに声をかける。
ご機嫌になったか?
「本当に、僕が怖くないか?」
息が苦しいぐらいに強く体を折りたたまれている格好で答えるのもおかしな話だと思ったが、俺は少し身を乗り出して、ちゅ、ちゅ、とわざとらしい音を立てて兄貴の顔中にキスを降らせる。
そして、自分の両腕を兄貴の首にぐるりと回す。
「全然怖くない」
またお腹の上に乗せてくれよ、と耳元で囁いて耳たぶを唇で挟んだ。舌先でくすぐり、愛してるからな、と告げた。
「……ベッドの方が広い……」
なあ、兄貴。
そう来たか。
喉が鳴ったのが聞こえたぞ?
「キスの仕方から教えてやろうと思ったのに」
喉を鳴らしたのと、俺をありえない格好で抱え込んだまま兄貴が立ち上がるのはほぼ同時だった。
マジかよ。
今度の兄弟喧嘩は口げんかにしよう、そう決めた。
「まずはバスルームに連れてってくれよ」
「そういう手順なのか?」
「まあな」
良い生徒でいてくれるか、と尋ねると兄貴は深く頷いて、これも夢に見た、と掠れた声で返した。
なるほど。
それなら、遠慮はしないぞ。
「愛してるよ、兄貴……」
「……僕もだ、ブラクストン」
僕も、愛している。
生真面目な返事に今度は俺が喉を鳴らす番だった。
十三歳のファーストキスから、どこまで行けるかはわからないけれど。
俺は頬を緩め、大股で歩き出した兄貴の頬に自分のそれを擦り寄せて、愛してるを繰り返した。
SIDE : C
混乱を抑えるために、僕は何か手段を講じなければならなかった。
ここには僕の心を静める絵がない。
どうしたらいい?
「……兄貴……大丈夫だ、ちゃんとできてる……」
僕には「男のプライド」だとかいうものを理解することができない。不慣れな性行為を恥だとも思わない。
ただ、これが正しいのか。
ブラクストンが望んでいたものなのか、それがわからないから、熱くなる体と押し寄せてくるような、焦燥感にも似た性衝動をどうすればいいのかがわからない。
怖くはないのだろうか?
自宅に軟禁するような男に、こんな欲望をぶつけられて。
全身を濡らす汗に、紅潮した頬、潤んだ瞳、苦しげに寄せられた眉根のどれもが「良いもの」には見えないのだ。
「……ブラクストン」
バスルームから出てきたブラクストンはすぐ外で立ち尽くしていた僕を見て、目を丸くして、それから優しく笑った。そして、また僕が彼のことを抱え上げようとすると、さっきのはちょっと苦しかった、と眉を上げ、今度は?と、少し挑戦的な目で見てきた。
だから、僕はしばらく悩んだ後で、太股のあたりを抱えて持ち上げた。
俺は負傷兵かよという笑い声が聞こえたが、僕には他の運び方が思い着かなかった。
僕はブラクストンを女性のように扱いたいわけではない。ただ、触れたくて、触れられると体が熱くなって、欲が出てきてしまうだけだ。
隙間なく、近づけるかもしれない、と。
ブラクストンとなら、僕の周りに出来た壁のようなものを取り払うことができるだろうと。
肌と肌の密着がそれを言うのではないとわかっていても、物理的に満たされたいと思う気持ちが強くなりすぎてしまったのかもしれない。
「ブラクストン……っ」
「ヘイ……ヘイ……、兄貴、落ち着けって……。どうすればいい?」
ブラクストンは額にびっしりかいた汗を手の甲で拭うと、僕のペニスを腹の中に収めながら(苦しいだろうに)僕を気遣い続ける。僕はただ、ベッドの上で仰向けになっているだけだ。
ブラクストンの腰を必要以上に強く掴んでいることもわかっている。きっと朝には指の形に痣ができているだろう。
他に、どこに手をやればいいのかが、わからない。
「ソロモングランディ歌ってやろうか……?」
荒々しい吐息に、唇を時折噛む。
そして、背を逸らして少し低いところで掠れた、言葉にならない声を漏らした。
僕の腕をさすりながら、優しい声をかけ、それから気持ちが良いから大丈夫だ、と励ましてくれる。
「……僕はブラクストンを……愛してるのに……」
「のに?」
ブラクストンは目を細め、ゆるく頭を振る。
「苦しませて……ばかりだ……っ」
止まらない、と訴えるのは卑怯な男ではなのかもしれない。意識が下半身にばかり集中することが正しいのか、そうでないのかがわからない。
自慰は週に一度、機械的に行っていた。
だけれど今、ブラクストンからもたされた快感はその比ではない。まったくの別モノだ。
頭の芯から溶けていくような熱だ。
「……兄貴、ちょっと腰から手を離してくれるか……?」
僕は言われた通りにするが、やはりそこには僕の指の型がしっかりと残っていた。眉を寄せるとブラクストンは唇を舌でなめ回してから、片頬をあげて笑い、勲章だと言った。
「兄貴が俺に夢中になってくれた印だ」
「……僕は夢中だ……他のことが考えられない……」
「いいんだよ、セックスはそういうもんだ」
愛しているがいっぱいになって溢れ出すから、体を繋げるんだとブラクストンは言った。キスもそれが理由だけれど、キスだけじゃ伝えきれない分をセックスで補えると。
「ほら、手を貸せって」
「……?」
ブラクストンは僕の自由になった手を取り、ブラクストンの両手の平を合わせる格好でしっかりと組み合わせた。
「力を入れても大丈夫だから、な?」
「……あ、ああ」
「今度は兄貴が上になってやってくれると嬉しいけど。俺、こうされるのが好きなんだ」
そう言って、ブラクストンは僕を含んだまま、ゆっくりと体を前に倒した。手はそのままシーツの上に押しつけられたような格好だ。少しだけ、ブラクストンの重みを感じ、その接触に安堵をもらう。
「な、落ち着くだろ?」
「ああ……」
それに、ブラクストンは「今度」と言った。
「……教えることはまだまだたっぷりあるからな」
そして僕がそのことを口にする前にブラクストンはそう言って、僕の頬にキスをくれた。
「唇に欲しい?」
「ああ……」
「じゃあ、奪ってくれよ。手はそのままだぞ?」
ブラクストンはそう言ってくすくす笑いながら、腰を上下に揺らしはじめた。
そして短く声を漏らしながら、舌を見せ、それからぐっと手の力を強くした。僕も同じぐらい強く握り返しながら、少しだけ背中を浮かせた。
そして、ブラクストンの唇を追いかける。
一度は顔を引いて逃げ、二度目は横に逸らし、少しの苛立ちを感じたところに大きく口を開けて迎え入れてくれた。
粘膜と粘膜が触れあうことなど、嫌悪感しかないと思っていたのに、どうしたことなのだろう。
舌と舌をこすり合わせ、絡め合い、お互いの唾液が行き交うことに夢中になる日が来るとは思わなかった。息継ぎの合間すら、惜しいと思っていることを、言葉にして伝えるべきなのだろうか?
「兄貴……俺も、最高に……気持ちがいいんだ。セックスの時はフェイスマークのことを忘れろ、いいな?」
「あ、ああ……」
よし、とブラクストンは頷くと「ちょっと苛めるぞ?」と耳元で囁き、目の縁を舐めた。
僕は、ごくりと喉を鳴らした。
そして、ブラクストンはそんな僕を上から見下ろしながら、愛していると唇で伝えてくれた。
僕もだ。
僕もブラクストンを愛している。
どうか、どうか、この気持ちがブラクストンに届くように、そればかりを強く思った。
SIDE : B
世界がカラフルになった。
目を覚ましたら薔薇色、だった。いや、違うなこれは輝いていると言うのだろうか。
ブルーはより鮮やかに、生まれ変わった。
「……ブラクストン……?」
不安いっぱいのルーキーの声に俺はくつくつ笑って、おはようと耳元で囁いてやる。
約束通り、腹の上に乗せてくれたというわけだ。体中がきしむように痛んだが、仕方がない。
正しい手の置き方もわからない兄貴は、そんな時に背中や腰を撫でるということを知らない。
彼の指は俺の顔の縁をたどり、腕や首筋をつつくようにしていた。
子供が虫だとかにちょっかい出すあれだ。
生きてる人間にするんじゃない、と教えないと。
「……おはよう、ブラクストン」
そんなルーキーの成績をつける前に、キスだ。キスは十三歳のそれから、十八歳ぐらいまではステップアップしたと思う。
よく頑張ったな。
「なあ、兄貴……?」
大事なことも、伝えないと。
「ああ」
兄貴の目の色がわかるよ、と告げた。
ヘイゼルの色は子供の時より少し暗くなったように思うけれど。
「……でも、僕が今日は……色を選ぶ」
「うん」
きれいな色がいい、と口元に笑みを浮かべた満足そうな兄貴の顔に、俺はたまらずキスをねだる。
おはようのキスは、舌を絡める必要はないんだけど、今日は許すよ。
何しろ、最高にご機嫌なものだから。
「愛してるよ、兄貴……」
僕もだ、の声に続く、再びのキスに応じながら、ジャスティーンにどうやって報告するかを考えていた。
おてんばらしく上に乗っかったって?
まさか。
俺は女性には紳士的に振る舞うタイプなんだ。
そうだな、とりあえず。
兄貴がぐっすり眠れるようになったということは伝えてやらないと。
きっと大喜びだ。
俺も、嬉しいよ。
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これは、本にすべきでは……?
してもいいか。
考えましょw
ということで、今回の素敵お題を目一杯使って遊ばせていただきました!
楽しかったです!
お兄初めて物語りでした!