C/B 円盤発売記念
リクエスト:雨の日のクリスとブラクストン
とん、たん……たんたん……
ててて……
た、た、たん……
会計事務所の隣にある店舗のシェードを打つ雨音は不規則だ。
ガラス扉を流れる水滴は一つ、二つ、三つと集まると大粒に変わり、つるりと滑り落ちて行く。それも、また不規則だ。
だが、美しいラインを描く。
そして、リズムは脈音の裏を打ったり、隙間を埋めたりして、心地良い旋律に変わる。
水たまりに出来る波紋は、文句なしに数学的で美しい。
僕は、雨が好きだ。
嫌な思い出もあるが、それでも、雨は僕をとても落ち着かせてくれるから。
「……」
午後の予約の急なキャンセルが入ってざわついた心が、そうして雨を眺めているうちに落ち着くのがわかる。いつから降り始めたのだろう、すっかり街全体が雨に濡れていた。この調子では新規の客が来ることもなさそうだ。
今の事務所に落ち着いてから二ヶ月になるが、まだ誰も他に雇い入れていない。リビングロボ社の件以来、大きく動くことは難しく潜伏しているような状況ということもあるが、今は少し新しい知人を顧客以外に増やす気にはなれなかった。
「午後は閉めよう」
それにどうしても手が回らない時は、弟であるブラクストンが手伝ってくれる。彼もまた今は動くべき時ではない立場だ。退屈しのぎにいつでも呼んでくれ、と言ってくれていたので遠慮なく声をかけている。
彼は何を頼んでも、上手くやってくれた。
見よう見まねだ、と言って謙遜するが、それがどれだけ難しいことなのか、ブラクストンのような器用な人間にはわからないのだ。
彼はこの事務所からも、僕が住むようになった家からも少しずつ離れたところにある中層のアパートメントの五階、最上階に住んでいる。僕は一階がいいと何度も主張したが、ブラクストンは取り合わなかった。
一階が良いというのは危険から脱しやすいということが理由だ。ブラクストンは「大丈夫」と言うだけで、どうして五階が良いのか理由を言わなかったので、僕にはわからないままだ。
僕はその時感じた「すっきりしない」「面白くない」気持ちが蘇ってきて、また不機嫌になりかけたので僕は二度、咳払いをして外に『CLOSED』の札を下げ、受付の部屋の明かりを落とした。
奥のデスクに戻り、手早く持ってきたサンドイッチを食べ、コーヒーを一杯飲み終えた僕は、手元でモニターをチェックすることにした。ブラクストンのことを考えたから、彼の今の様子が気になった。
『Hello 王子様』
ジャスティーンを呼び出し、ブラクストンの所在を尋ねる。
『1時43分に帰宅してから家の外には出ていないわ』
まだ寝ているのよ、とジャスティーンは言ったが、もう正午を過ぎている。昨日の夜の様子では健康そうに見えたが、具合いが悪いのかもしれない。
セックスはしなかった。僕はしても良いと思っていたが、ブラクストンはそう思っていなかったのだろう、だからしなかった。僕はブラクストンが望んでいないことをするつもりはない。
それに、どうしてもと願ってもそれを伝える術をまだ見つけていない。こうするのが普通だ、という指針がないとこういう新しい感情や欲求に出会った時に困ってしまう。
ブラクストンに聞いたら良いのか、それもわからないのだ。
僕はもうブラクストンを悲しませないと決めたから、慎重に接しないといけないのだ。
上手くできているかもまたよくわからないままなのだけれど。
「昨日、家を出たのが午後9時半だ。なぜそんなに遅くなった?」
のんびり歩いて帰ると言っていたブラクストンだったが、家から彼の部屋までは三十分はかからない。てっきりまっすぐ帰宅していると思って確認していなかったことを今は悔やんだ。
彼の安全を守るのは僕の責任だ。
『ダイナーに寄っていたようね』
「……食事は家でした」
『そうね』
ジャスティーンも僕も、こういう気まぐれな行動の理由を探るのが下手だ。合理的でないことをする意味がわからないのだ。ブラクストンならすぐにわかるのだろうけれど、彼自身の行動を尋ねることはできない。
彼はいつもこう言うから。
「俺は上手くやれる、だから大丈夫だ。心配するな」
それはわかっている。僕は彼の実力を一番に理解していると思っている。
ただ、僕が言いたいのは。
何と言えばいいのか。
ブラクストンの行動の意味がわからないままだと、息苦しくなってしまうのだ。怒っているのか、喜んでいるのか、悲しんでいるのか、どれに当てはまるのかはっきりさせたいと思ってしまう。
僕は、慎重に行動したつもりだ。
しかし、どこかで何かを間違ってしまったから、彼はいつもと違う行動を取ったのだろう。
もしかしたら、最初からよそよそしい、態度だったのかもしれない。
僕にはいつも通りに見えたが。
「……訪ねてみることにする。彼に来客はあったか?」
『いいえ』
「わかった、ありがとう」
ジャスティーンとの通信を切った僕はランチボックスと水筒を鞄に入れ、PCの電源を落とした。
僕はブラクストンの無事を確かめたいだけだ。
もし、昨日の夜に何か間違ったことをしたのなら、改善しないといけない。
僕も、上手くやれるようになりたい。
強くそう思った。
呼び鈴を三度鳴らし、インターホンから聞こえてきたブラクストンのいつもよりずっと低い声が聞こえた。警戒しているのだろうが、無視をするほど非常識でもない。
『……何か?』
「ブラクストン?今、部屋の前にいる、開けてくれ」
重厚と言えば褒め言葉になるのだろう。
古いだけに見えるアパートメントは、入り口に鍵がかかっているわけでもなく、この通りたやすく部屋の前にまで来ることができる。僕が不満に思う理由の一つだ。
『え?!マ、マジで兄貴?!』
一転、慌てた声になったブラクストンはすぐに玄関の扉を開けてくれた。
僕が好まない格好で。
ブラクストンは存在理由が少しも見当たらない、両脇の大きく開いたタンクトップを着ていた。下には腰骨が片方見えるぐらいにずり下がったスウェットを履いていて、裸足だった。
思わず眉間に皺が寄ってしまうのを止めることはできない。
「何かあった?」
ブラクストンの問いには、用意した答えを返す。
「おまえが午後になってもまだ寝ているようだから、具合いでも悪いのかと思ったんだ」
「あー……」
ブラクストンの表情は驚きのそれから、呆れたようなそれに変わる。小さな舌打ちが聞こえた。
「……医者が必要か?」
僕は失敗を察したので黙ってしまおうと思ったが、大事なことを尋ねることは忘れない。
「いらない」
「そうか……」
「いいから、入って」
「わかった」
短い言葉は苦手だ。短いところに色々な意味が含まれていることが多く、僕はそれを上手く拾い上げることができないから。
ほとんど区切りのない間取りで、遮るものがあるわけではなかったが、僕は辺りを警戒するように気配を探る。
「誰もいねえよ……」
いつもの安全確認、のつもりだったがそれはさらにブラクストンの機嫌を損ねてしまったようだ。口角は下がったままで、眉間にも力が入っている。
「来るたびそうするよな?」
まあ、滅多に来ねえけど、と続く言葉に僕はいつもの決まり文句を返した。
「安全のためだ」
「……どうせ全部見てるくせに……」
ちっ、とまた小さく舌打ちが聞こえる。
「どうした、ブラクストン」
「なんでもねえよ」
リビングもダイニングもキッチンもベッドも、すべて一つの空間の中に納まっているこの部屋は外面の古さと相反して、おそらくモダンなデザインだと言うのだろう、とにかくブラクストンの気に入りだったが、僕は苦手だった。バスルーム以外のすべてが見えている。配管や柱もところどころがむき出しで落ち着かない。
大きな窓がいくつもあるのに、こんな高い位置に住むなんて正気とは思えなかった。
ブラクストンはそのまま寝乱れたままになっているベッドに転がって、枕に頭をぐりぐりと押し当て、ため息をついた。
「不機嫌だ」
僕はその姿を見下ろすことしかできない。前に尋ねた時はバッグをどこに置く?だとか、コートを預かるよ、だとか色々気遣ってくれた。コーヒーを入れたら飲むか、も尋ねてくれた。
僕はブラクストンの入れてくれるコーヒーが好きだと言った。
味なんか変わらねえよ、とブラクストンは言ったが、僕はもう一度同じことを繰り返した。
あの時は嬉しそうに笑ってくれた。
今とは全然違う。
「……うん」
「僕が来たからか……?」
じくり、と胸の奥が痛んだ。それでも僕は理由を知っておかねばならないし、改善もしないといけない。
「違う」
「だったらなぜだ?」
「……ったく」
ブラクストンは寝転がったままだが、仰向けになり、こちらを向いた。
大きく空いた脇から胸筋、腹斜筋が覗いている。僕はそこから目を逸らすようにして、唇に力を入れて口を閉じた。
「……雨の日が嫌いなんだよ。頭が爆発するし、だるいし……」
「爆発?」
僕はベッドのすぐ傍にまで近付き、ブラクストンの様子に変わったところはないか確認しようと手を伸ばす。
「髪がな……、ほら、わかるだろ?」
指先が髪に触れる。整髪料を付けていないときのブラクストンの髪を触るのは好きだ。
「大きくなって巻き毛になったな」
爆発、というのはその癖が大きくなることを言うのだということを、僕は今、学んだ。
「……うるせえよ……」
これも、失敗だ。
僕はいよいよどうすればいいのかわからず、立ち尽くすばかりだ。
悲しいという気持ちを表現するのも、きっと今は適当ではないのだろう。
「……」
どうにか僕は大きな窓に打ち付ける雨音に、気を逸らした。事務所を出た時より強くなったのか、少し忙しないリズムを刻んでいる。それでも筋になった水の流れを見ていると、呼吸が上手くできるようになる。
雨の日のぼんやりとした世界の色が、心地良い。
ブルーグレイ。
淡いグラデーション。
僕は雨の日が好きだ。
「……だから、雨って嫌いなんだ……」
しかし、ブラクストンがそう呟くのが聞こえたので、僕はもう一度ブラクストンの方へ顔を向けた。
「兄貴がさ……そうやって、すぐに夢中になるからさ……」
だから雨の日が嫌いだ、とブラクストンは繰り返す。
「大好きな絵に似てるんだ」
僕はもうひとつ、思いついた理由を口にしてみた。
「お嬢ちゃんにあげたやつ?」
正確には彼女、デイナに贈ったものを描いた画家の作品群に似ている、だ。心が落ち着く効果についても同じだ。
「ああ、そうだ」
しかし、これもまた良い答えではなかったらしく、ブラクストンはベッドの上を子供が駄々をこねるように転がり、雨に向けていくつもの悪態をついた。
「……晴れるまで不機嫌だから、もう帰ってくれ」
そして、落ち着いたと思ったらこんな風に言った。
僕はブラクストンにこんな気分屋なところがあることを知らなかったので、返事に困る。
普通の人間は思ってもいないことを口にすることがある。
正直に「わかった」と言って部屋を出たら、余計に腹を立てる人間もいれば、出ていかないことでさらに怒らせる場合もある。
僕はブラクストンの嫌がることをしたくはない。
でも、離れがたい気持ちはもっと強い。
困ったことに。
「……帰らない」
どこかに座ることも許されていない僕はただただ上からブラクストンを見下ろすしかできない。髪を触ることは拒まれなかったので、もう一度指先をくぐらせる。
「巻き毛はかわいい」
「うるせえ」
褒めるのも気に入らないのか、ともう少しだけ髪と地肌を撫でてからゆっくりと手を離し、僕は口を噤んだ。
だけれど、それでも離れたくない気持ちは収まらないので、ブラクストンの顔をじっと見つめるしかなかった。今なら彼が目を伏せてくれているので、じっくりと見ていられる。
昨日、どうしてダイナーに寄ったのかが知りたい。
僕がどうすればよかったのかも、知りたい。
でも、聞けないのだ。聞いたらまた彼は不機嫌になってしまうし、怒らせてしまうかもしれない。
「……見るなよ……」
ブラクストンの頬や目の周りがじわじわと赤らんでくるのがわかった。掠れた声の抗議はしっかりと聞こえたが、僕は聞かないふりをした。見ることも許されないなら、僕は本当にここから立ち去ることしかできないからだ。そう思うとぎゅっと胸の奥が締め付けられるような気がして苦しくなった。
ブラクストンはもう一度大きなため息をついて、それから少し腕を伸ばし僕の膝のあたりに触れた。指先でつつくような、軽い触れ方なのに、僕の胸の苦しさが少しだけ和らぐ。
「もうちょっとしたら……熱いシャワー浴びてしゃっきりするからさ……」
そして、僕のスラックスをつまんで引っ張った。
「もうちょっとこうしてていい?兄貴も……嫌じゃなかったら座ってよ……ぐちゃぐちゃだけど」
ブラクストンは僕のほとんどを理解してくれている。だけれど、少しもわかっていないこともある。
僕のブラクストンに対する気持ちのほとんどを、わかっていない。
「かまわない」
スラックスがシワになることを気にしないわけではない。窮屈な格好で来てしまったことは失敗だと思っている。
だからと言ってそれを理由にブラクストンから離れるということにはならない。僕は十年の間、彼から離れていたことが間違いだと気付いたばかりなのだ。
もしかしたら、どこかで失っていたかもしれない。
スラックスのシワなど。
そう強く思っているのに、上手に行動に移せないし、表現することができない。
「うるさいって言ってごめんな……」
「気にしてない」
「本当に?」
「……大丈夫だ」
ベッドの端に腰をかけ、少し近いところからブラクストンの顔を見つめる。いつもより表情がぼんやりしているのは、だるさを訴えていたせいだろう。
「……仕事は?」
「予約がキャンセルになったから閉めてきた」
「へえ……臨機応変」
よくできました、と言いながらブラクストンはくすくす笑って、僕の太もものあたりを手のひらで撫でた。
「来てくれて、ありがとな」
「いいんだ。僕が……」
僕が来たかった。
「へへ……昨日も会ったばかりなのにな」
「迷惑だったか?」
ブラクストンはちょっと眉をあげて、それから「いいや」と、言葉を継いで、にやりといたずらっ子のように笑った。
「夕方、電話ぐらい来たらいいなって思ってた」
「……そんな約束はしていない」
僕が忘れるはずはない、と少し体を傾けて、ブラクストンの顔を覗き込む。表情をしっかり見極めないと。
「してねえよ、約束なんて」
しかしブラクストンは体を起こして膝をつくと、僕の後ろから負ぶさるように腕を前に回してきた。この体勢は顔が見えないから好きではないのだけれど、ブラクストンが肩に額を押し当ててくるので視界にふわふわの、彼が言うところの爆発した、前髪が見えたから、今日は黙っていようと思った。
巻き毛はかわいい。
「ただ、昨日の夜は引き止めて欲しかったなって思っただけ」
やっぱり、そうだ。
普通の人間は思ってもいないことを口にすることがある。帰るよ、と言い出したのはブラクストンの方だったのだから。
引き止めて欲しいと思いながら、一人でダイナーに何時間もいたのか、と思うとぞわりと寒気のようなものを感じてしまう。
人の寂しさをわかる人間に近寄られたかもしれない。僕から一番遠くにいる人達のことだ。まず、ブラクストンがそういう人間なのだけれど。
「僕は……そういうことがわからない」
「そうだよな、わかってるよ」
「……ちゃんと教えて欲しい」
僕は正しく行動したいと思っている。
ブラクストンは「うーん」と言って、はっきりとした答えはくれなかった。
「言いたくない時もあるんだよ」
そして、そんな風に言って腕の力を少し強くした後で、顔を少しあげて耳の下や頬、首筋に唇を押し当ててくる。
今日はこういう日なのかもしれないが、僕はどうしたらいいのだろう。
このまま前を見ていればいいのだろうか。
この大きい窓の向こうに移る、雨の景色を見ながら。
「ブラクストン」
「ん?」
僕はゆっくりと深呼吸を繰り返す。拳に力を入れて、奥歯を噛みしめる。
「兄貴?どうした……?」
その緊張が伝わったのだろう、ブラクストンが少し顔を前に出して顔を覗き込んでくるのがわかった。
「……僕はおまえのことを思っている……」
雨の日でもそれは変わらない。それに雨音がブラクストンの脈音が混ざり合うのも良いと思う。心から安心できるリズムだ。
「ん……」
僕はブラクストンの腕を取り、ゆっくりと体をひねり、彼の体の前に入った。そして、さらにはりつめる緊張とともに額に唇を押し当てた。そして髪を撫で、口元を緩める。
どうか、スマイルに見えて欲しいと願いながら。
「……よくできました」
ブラクストンはそう言って微笑むと、そのまま顔を近づけて、僕の唇にキスをくれた。
「もっとしていい?」
僕は小さく頷き、ブラクストンのキスを受け入れながらしっかりと両の腕をブラクストンの背中に回した。
布地の足りないタンクトップのせいで、するりと手の平が素肌に触れてしまう。汗ばんでいるが、なめらかだ。
でも、次に来る時はパジャマを買って来ようと思う。
柔らかな唇と舌のとろみを追いかけていくと、ブラクストンの喉が鳴り、僕の背中に指の力がかかるのがわかる。どうした?と少しだけ顔を離すと、目の周りを真っ赤にしたブラクストンが少しせわしなくなった吐息を漏らしている。
「……シャワー浴びきていい?」
僕はこの合図、には気がつくことができた。だから、頷いてしっかり締められたままのネクタイに手をかけた。
「それ、最高……」
ブラクストンは喉を鳴らすと、するりと腕の中から体を抜いてバスルームに向かった。ハンガーを貸して欲しいという気持ちもあったが、スーツ一着駄目にしたところでどうということはない。同じものがいくつもある。
今日の僕は、臨機応変だ。
「……機嫌が良くなってよかった……」
僕は先ほどまでブラクストンの肌に触れていた手のひらをじっと見つめ、それから指先に二回ずつ息を吹きかけた。
僕の準備は整ったぞ、ブラクストン。
バスルームを尋ねたら、またおまえは驚くだろうか?
それとも、喜んでくれるだろうか?
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恋愛小説みたいなC/B書きたかったんです……
でも恋愛小説読んだ経験値低すぎていつもの感じになりました…!
でも雨の兄弟楽しかったです!今度は外で濡れるやつも書いてみたいですね!
(伏線回収してないですね)
(窓からお兄の住んでる平屋が見えるということでした)
(台無し)