ザ・コンサルタント(C/B) ブラクストンの落とし前。
仕事は完遂すべきだ。
兄ほどではないが、俺だってプロだ。それこそ最低限守らなければならないことだと思っていた。そして、必ずそうしてきた。
今回のことも、クライアントが俺の言う通りどこか外国に避難していれば、さらに兄の邪魔が入らなければ、その通りになったはずだ。そもそも、兄の介入がなければ頭の切れる経理部のお嬢さんと上手に話し合いをして、引っ越しや転職を勧めて丸く収められたと思う。銃弾の一発も使わずに。
いや、どうかな?彼女はあの兄貴と気が合うぐらいだ、こちらが言いくるめられたかもしれないな。
とにかく、仮定の話はここまでだ。
今の俺は、所属していた「ちょっとした」民間警備会社のボスの前で後ろ手を組んで、足を肩幅に開いて立っている。もちろん丸腰で、ボディチェックも念入りに受けた。
これは、俺なりの落とし前の付け方だ。
ラマー邸から手を引いた後、まず考えたのは姿をくらますことだった。名前も変えて、過去を消す。普通ならそうするだろう。
その方が無難だからだ。上手くやれれば追っ手を寄越されることもなく、多少の後味の悪さはあっても、新しい身分を手に入れさえすれば、ほぼ自由に暮らして行くことができる。それぐらいの財産を作れる仕事だった。
どうしてそうしなかったかと聞かれれば、俺はこう答えただろう。
-- 名前を守りたかった。
ただ、これだけだ。
この名前を兄貴が呼んでくれるのは、俺が産まれた時に両親によって名付けられた名前で、自分より先に兄が覚えた名前だからだ。
仮に。
考えたくはないが、もし仮に、また離れ離れになったとしても、この名前を兄が探してくれるかもしれない、その希望に賭けたのだ。
それに、もし。
間抜けにも命を落としてしまったとしても、本名を使ってさえいれば、どこかしらに死亡記事が出るだろう。それで、少なくともさよならは言えるわけだ。悲しんでくれるかどうかはわからなくても。
俺はそれでいいと思ったんだ。
再会した日に、兄は会いたかったと言ってくれたから。愛していると、伝えることができたから。
「……なるほど、おまえにはずいぶんと優秀な守護天使がいるらしいな」
ボスは面白くもなさそうに、俺が差し出した書類を一瞥して、葉巻に火をつけた。この会社は表向きは軍隊と連携することも多い一般企業ということになっている。このオフィスだって、街の一等地にあり登記簿にだって記されている。大通りに面した立派なビルの何フロアかを押さえていて、公式サイトもあれば、内勤スタッフのリクルートおおっぴらにしている優良企業だ。
だから、俺は賭けに出たのさ。
できるだけ多くのカメラに写るようにしながら歩き、正面からビルに入り、受付嬢に差し入れをして愛想を振りまいた後、守衛室にも顔を出した。
それから、秘書に久しぶりと手を振ってから、ボスの部屋の扉をノックした。これで、俺がどこからも出て来ないとなれば多少の問題にはなるだろう、そう見当したのだ。
子供だましとボスは思っただろうが、命乞いの準備はできている。俺は、少しの苦笑いと、かすかな怯えを滲ませながら彼の反応を窺った。
「気まぐれで……次があるかはわからないんだけどな……」
俺は唇を舐めて、それだけを言うと少し首を横に倒し、じっとボスの方を見つめた。しかし、足は半歩、後ろに下げる。
彼にはこの手が効く、はずだ。
俺は「モバイルを出すよ」と前置いてから、スラックスのポケットを探る。もちろん、後ろにボディガードが二人控えているから、何かしでかせばすぐに撃たれるだろう。
ゆっくりと、指でつまむようにして取り出したモバイルの画面には銀行口座の振込画面が表情されていた。
「今の全財産だ……これを受け取ってくれ……」
書類には、一連の取引にこの会社が関わったことを示すすべてが記録から消えたということが記されているはずだ。俺にはそのからくりはわからなかったが、あの日の夜、非通知でかかってきた電話のむこうにいた女が、すべてを手配してくれたのだ。
Hello Buttercup.
Do you like puzzles?
彼女は兄の助手だと言った。
彼女の名前はジャスティーン。俺も昔々に顔を合わせたことのある、驚きの人物だったのだ。
コンピューターを通した人工音声でしか話せないが、見た目やとにかく落ち着かない立ち振る舞いと違って凄まじく頭が切れる女だ。感情も、兄貴のそれよりずっとわかりやすい。それに伝えやすかった。
俺をButtercupと呼び、おてんば扱いする彼女もまた、名前を捨てて逃亡する方を勧めた。ただ、どうしてもそれはできないという理由を素直に伝えたら「王子様には内緒にしておくわ」と言って協力を約束してくれたのだ。大きなため息とともに。
兄貴は、きっと考えたこともない。
俺が、こんなにもこんなにも、どうしようもなく、兄貴のことを想っているのだということを。
久しぶりの兄弟の再会?
そのセオリーに当てはめて納得しているだけだろう。
だけれど、どうかな。俺のこの気持ちは、セオリー通りだとは思えないんだ。
「……それでおまえ、これからどうするつもりだ?」
金もないのに、という言外の響きを察した俺は、肩をすくめて、どうかな……とだけ呟くに留めた。目元には怯えを残し、不安に迷っているのだという証左に瞬きの数を多くする。
強い自分を見せるか、弱さを見せるか、それとも好意を担保にするか、交渉ごとに俺はスタンスを変える。ボスもそれを知っているだろうから、すぐに騙されてはくれないだろうが、慎重に動くほかない。
「……得意なことをやりてえけど……」
ぽつりと呟いた声にボスは反応せず、黙ったまま書類をシュレッダーにかけた。ごくりと生唾を飲み込み、緊張のせいでやけに大きく聞こえる壁時計の秒針の音に合わせて呼吸をコントロールする。
交渉は決裂なのだろうか?
それとも、許してもらえるのだろうか?任務の失敗はたまにはあることで、そのたびにリーダー職を間引いていては会社が成り立たない。
しかし、今回の場合、俺以外の人間すべてが死んでいるのだ。詳細をもし調べたら俺の銃で一人撃たれていることが明らかになるだろう。
だから、ジャスティーンは過剰なまでに情報や証拠をクリーンナップしてくれたのだ。俺が思いつくだろう範囲を超えて。
「バッティングしたら手を引けよ?」
「あ、ああ……、わかっている。もちろんだ」
それは必ず、と言いつのる俺にボスはあきれ顔でこちらを見て、モバイルを一瞬操作したかと思うと、すぐに投げ返してきた。
そこには三ヶ月ぐらい、モーテルで大人しくしていられるぐらいの金額が残されていた。いいのか?と顔を上げると、口元を歪め、こう続けた。
「表の仕事がなければ、始末してたさ」
「……そうだろうな」
俺はしおらしく頷き「悪かった……」と、謝罪も付け加える。ジャスティーンの仕事が「完璧過ぎて」ボスもリスク回避に動いたのだろう。例えば、ここで俺が殺されたらどうなるのか。
すべての顧客データが世間の明るみに出るとか。
そういうことを想像したかもしれない。何しろ、ジャスティーンのハッキングの腕は超一流なのだから。
おそらくは、だが。
「表から出て行けよ?」
ボスの言葉に俺は両手を挙げて、了解と降参を示す。彼は俺の作戦にしっかりと気付いていたようだ。そうでなければ、この手の事業で成功するはずがない。
「ありがとう」
戸口で、心細さを残す声音で礼を言った俺に、ボスはうんざりしたのか顔を背けた。
よし、これでもう大丈夫だろう。
二度とここへは来ないし、彼とも二度と会わない。
まあ、悪くないボスだったけどな。
「……今から出る」
モバイルがぶるりと震えて、いつもの非通知表示に俺は歩きながら応答する。もちろん相変わらずあちこちに笑顔を振りまいて、馴染みの事務員の女性には片目をつむる。
彼女は経費の計上に甘くて助かったんだ。俺は結構食費が嵩むタイプだったからさ、交際費には助けられた。
『建物を出たらすぐに右に回って3ブロック歩いて』
「オーケイ」
俺はそれから三十分ほど、ジャスティーンの指示に従って歩いた。橋を渡り川向こうに出た。
「……おっと」
そこには兄の車が止まっていた。迎えに来ている可能性はないと思っていた。もちろん、期待はしていたが、それと同時に期待は報われないことがほとんどだという自覚もあった。
それでも、今日はさすがに驚かされた。
周囲を見回すと、川向こうにはさっきまで俺が所属していた会社のオフィスが入っているビルが見える。それから、向かい側には宿泊料金がかなりするラグジュアリーホテルが立っていた。
なるほど。
なるほど?
「オーケイ、ジェイ。電話を切るぜ」
『わかったわ』
参ったな、と俺は頭を抱えたい気持ちを何とかこらえて深呼吸をする。俺はすぐに状況を理解する。俺の期待でもなく、これは事実だ。
ジャスティーンに聞かずとも、彼はあのホテルに部屋を取っていた。あの上から数えて三階目の角から五番目の窓のある部屋に間違いない。そこからなら確実に、ボスの部屋を狙える。
俺のモバイルにはおそらくマルウェアがインストールされていて、盗聴ができるようになっているのだろう。だから、交渉が決裂した場合には……、まあ、つまりそういうことだ。
過保護だと思うか?
愛されていると思っていいか?
「参ったな……」
俺はあと十歩、車に近づくことができなくて立ち止まる。いっそ、さっきまで構えていただろうライフルで撃って欲しいくらいだ。
なあ、わかるか?
俺は今、最高に、幸せなんだ。
本当にこのまま死んでしまいたくなるぐらいに、幸せなんだよ。
それから、死んでしまいたくなるぐらいに、胸が苦しい。
「俺は、兄貴を愛してる……」
ぽつりと呟いた声を盗聴器が拾えるのかどうかはわからない。それに「アイラブユー」なんてのは、犬にだって言える。何だったら亀でも何でも。自分の持っている宝石だとか、壁に貼ったポスターに言う奴だっている。
でも、俺の愛しているの形はそのどれでもないんだ。
弟が兄に言う無邪気な「アイラブユー」ではないんだ、残念ながら。
それでも、今まで何度も、何度も頭に思い浮かんだけれど、否定してきた。
そうじゃない、ブラクストン。
毎日ずっと一緒にいたから錯覚しているんだ、とか。
兄貴を守らないと誓ったから、庇護欲が嵩じたせいだ、とか。
連絡が取れなくなった焦燥感と喪失感から執着してしまっているだけだ、と。
数え切れないぐらい言い聞かせてきた。
「でも、駄目だな……」
俺は、長いため息をついて、一歩ずつ車に近づいていく。この気持ちは、気のせいでも何でもない。
俺は、兄貴を愛している。
どうしようもなく。他の何も見えなくなるぐらいに。
今すぐ、運転席のドアを開けて「守ってくれてありがとう」とヒロインよろしく抱きついて、キスをねだりたいほどに。
愛している。
だから、この感情は兄弟愛のセオリーには当てはまらないし、表明すべきものではない。
俺はやっぱり今すぐに頭を撃たれて死ぬべきなんだと思う。そうすれば俺は幸せの絶頂から墜落することはないし、兄貴を困らせることもないのだから。
ボスの気が変わってくれないかな、とすら考えてしまうのは、俺が臆病者の大馬鹿野郎だからだろう。
上手くやれ、ブラクストン。
そのためのトレーニングは積んできたはずだぞ?
「やあ、ブラクストン……」
俺はそんなことを考えながらも、窓を指の背でノックをする。わかりやすくにっこりと微笑んで。
だから兄はその表情を見て、すぐに目を逸らし、いつもの「近所の住人」めいた挨拶を寄越した。
弟がその名前を守るために、命をかけたことも知らずに。
「迎えに来てくれたのか?」
「……ああ」
俺は嬉しいよ、と目線の合わない相手に向かって悪戯っぽく微笑みかけた後、助手席に回る。
少し、目の周りが熱くなってきてしまったので大きなくしゃみをして、ごまかした。アレルギーだったかな、と首をかしげるだけの見え透いた嘘に兄貴はきっと気付かない。
大丈夫、それでいいんだ。
これは俺だけの問題だ。コントロールできる。
「で、どこ行く?」
「口座がほぼ空になったと聞いた。しばらく僕の家で過ごすといい」
何度もしつこいけど、やっぱり今日はそういう日らしい。たとえ用意していた言葉を述べただけ、だとしてもそれは俺の夢を叶える言葉だった。
幸せというのが、防弾ベストも貫く弾丸だったなんて知らなかったよ。俺はずっと、ずっと、それと縁がなかったものだから。
「……サンキュ」
助かるよ、という声は少し掠れてしまっていた。しかし、兄は気付かなかったのかエンジンをかけ、アクセルをゆっくり踏みこんだ。少しずつ加速する車の行き先はわからない。
「なあ、兄貴。一つお願いがあるんだけどいいか?」
「ああ」
間を置かず返事が来ることがどれだけ嬉しいか、他の人間にはわからない。
「俺の名前、呼んでくれないか?」
ウィンカーを出して、車線を変更した後で兄貴はそのお願いに答えてくれた。
「ブラクストン」
抑揚なく紡がれた、単語一つ。
それでも、この名前には命をかける理由があったのだと、肯定できる響きだと思った。
「ん……」
ありがとう。ぽつりと呟くような声に、兄貴は何も言わずに運転を続けることにしたようだ。
俺は視線を窓の外へと投げかけ、細く長い息を吐く。少しガラスが曇るのを見届け、ゆっくりと目を閉じる。
どうか、この幸せが少しでも続けばいいと願いながら。
神様になんかとうの昔に見限られているだろうけれど、願わずにはいられなかった。
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落とし前シリーズは何通りか考えております。
これはその内の一つ。
すぐ受けを死にたがりにするのよくないと思います……(反省)