※非同居
少し、狭量な気持ちからだったと思う。
たぶん、先週兄貴と会った時に聞かされた、恩人「フランシス」のことを一週間ずっと考え続けたせいだろう。もし、その老人の稼業を引き継ごうとしなければ、兄貴が危険な連中と取引をするようなこともなかっただろうと思うのだ。少なくとも、ただの善良な会計士と出会っていれば、話は違っていたはずだ。
だから、俺にはフランシスが「恩人」とは思えなかった。
それにもっと単純なところで、数字の話を存分に兄貴とできる存在であるということが何よりも羨ましかったのだ。それは、危うく殺しかけたデイナ嬢についても同じだ。
俺は基本的に誰に対しても「殺意」を持つことはまずない。死んでもいい人間なんてのはいないし、殺したいというほど憎んだ相手もいない。とは言え、良心の呵責に苛まれることもない。
兄貴を探すために始めた仕事で、それなりの評価を得る必要があり、それを達成するために必要な課程だったに過ぎなかった。
人はそれを薄情と言うのだろう。
だけれど、俺の十年というのはそういう毎日だった。感情のリソースをすべて仕事に割り振り、悲しいと寂しいと会いたいと愛しているを封じこめて過ごす必要があった。
世界で一番、愛していると心から思っている相手を。
つまりは兄のことを。
感情に押し潰されて憎んでしまいそうになるのが怖かったからだ。幸い父の教えもあり感情のコントロールはたいした苦もなくできたが、最近はそのたがが緩みっぱなしで、あまり良い状態とは言えない。
週に一度会えるというだけで、嬉しくて目を真っ赤にしてしまうぐらいの振れ幅だ。兄貴は感情的な人間を誰よりも苦手にしているというのを知っているから、そろそろまた自分の感情を支配下に置かなければならない。
「なあ、久しぶりに組み手しようぜ?」
それでも、つい。
こんなことを言ってしまったのだ。
「……久しぶりというのは」
「ああ、あのじいさん家以来だが、あれはちょっとカウントしたくねえな」
取り乱して、兄を責めてしまった酷い思い出だ。いや、取り乱してしまうのが当然で俺の口にしたことは、はたから見れば「無理もない」範囲のことだと思う。
それでも、あんなことを言うつもりはなかった。
兄を探しはじめて一年のうちは毎日のように、再会のシミュレーションをしていた。見つけて、会いに行って、昔も今も変わらないよということを告げたかった。
しかし、時間が経てばそれだけ絶望に近くなる。
やがて、再会した日のことを考えなくなった。
「兄貴が軍隊に入る前かな」
「……ああ」
行って欲しくなくて、傍を離れたくなくて、それでもその思いを伝えることは許されなくて。
俺は、兄貴に勝負を申し出た。インドネシアで文字通り血反吐を吐くほどのトレーニングをして会得した体術を使った組み手を真剣勝負のつもりでやろうと。
五回ほど吹っ飛ばされたが(その頃にはかなりの体格差ができていたので)、兄貴と接触する方法がそれしかなかったのだ。だから、満足していた。
ハグができないなら、別の手段を考えればいい。
見つめることができないなら、後ろから見守ればいい。
それと同じだ。
「な、良いだろ?」
「……場所を確保しないと」
嫌がるかな、と思っていた俺は少し落ち着きをなくしはじめた兄の顔に目をやる。
「……へへへ」
兄貴の口元は少し緩んでいて、視線に気付いたのか、こちらをちらりと見て、今度は確実に笑っているとわからせる顔を見せてくれた。
そうか、これがあったじゃないか。
その時の俺はそう思ったんだ。心から嬉しくて、弾む気持ちはティーンエイジャーの少女のようだったと思う。
数字ではわかりあえないから。
彼の喜びも興奮も肯定はできても同意はできなかった。だけれど、組み手なら、格闘ならそれは俺の分野だ。
完璧なプランだと思った。
あまりに浮かれていて、すっかり失念していたのだ。
兄貴に、夢中になりすぎるきらいがあるということを。
結局。
俺が目を開けたのは、兄に七回ぶん投げられて(俺だって三回はいけた)、ベルトで足首を捕らえられて引き倒されて、その後関節と首を締め上げられて気を失ってから、半日ほど経った後のことだった。
兄貴より少し動きの早い俺の突きは確実に入っていたはずなのに、次の瞬間払われた。ダメージを与えられないことに一瞬気を取られたところで、体がくるりと回って宙に浮いていた。
蹴りもそうだ。首を掴んで投げても、次の瞬間には彼の腕は俺の関節を逆にひねり上げたし、力を乗せての突きには息が止まった。
二本ぐらいの肋骨が折れたのはわかった。
首の後ろに肘が入り、強く締め上げられる。
そこを軸にして体を回転させようともがくが、びくともしなかった。
セーフワードを設定すべきだった。もしくはジェスチャーを。
しかし、実際設定していたとしても、俺がそれを示せたかどうかはわからない。
それは苦痛からではなくて。
あまりに、兄貴が嬉しそうにしていたからだ。それはフランシスやデイナの話をしていた時と同じ笑みで。
自分の好きなことに没頭できる時に見せる、それだった。
だから、邪魔をしたくなくて。俺といる時にその顔を見せてくれるのが嬉しくて。
冗談抜きに。
今ここでどうにかなっても幸せだな、と思ってしまったのだ。
薄れ行く意識の中で、それは自分だけの喜びに過ぎないと気付いて内心で慌てたが撤回を誰に伝える必要もない。
俺の言葉を、思いを届けたいのは兄だけだ。
そして、兄にだけ、それが届かない。
「ブラクストン」
俺は、フェイドアウトを予感した瞬間に覚悟していた。意識を失った俺にパニックを起こした兄が、その場に置き去りにして安心できる場所に移動してしまうだろう可能性について。
しかし、そうはならなかった。いや、もしかしたら少しの間は動揺したのかもしれないが、見たことのある天井とシーリングライト、それに最高のスプリングの効いたマットレス、これは俺が何度か眠ったことのある、兄貴の新居のゲストルームだ。
「ヘイ……」
「……」
おはよう、ブラクストン。
大丈夫か?
そんな会話ができるようなら困っていない。俺は「弱すぎて悪かったな」とだけ、どうにか口にして、両頬の口角を上げて見せた。
オーケイ、俺は大丈夫だ。
そうだな、もうあれだけ喜んで、今もこうして一緒に過ごす時間ができたんだ。
感情なんて、どうだって取り繕うことができる。兄貴の前では決まったフェイスマークのいずれかに寄せればいいのだから。大根役者でさえなければ、どうにかなる。
どうにかなりますように!
「僕はとても……楽しかった……」
弟を痛めつけるのが?なんてことは聞かない。
「俺もだよ、兄貴。……組み手の時は、あんたに触れるしさ……」
まあ、今回はほとんど弾かれちまったけど。
俺はそれでもにっこりと笑って見せた。息苦しいのは肋骨が折れているせいだ。
鏡を見たらどうかな?
痣はどれぐらい残っているかな?前回の時は、兄貴も怪我をしていたから今回ほどの動きは見せなかった。
あの日よりも濃い跡が刻まれているのなら、俺は本望だよ。これを幸せ、ということに新しく定義づけてもいいぐらいだ。
「ブラクストン」
「……ん?」
すると兄はちらり、ちらりと定まらない視線を自分の意志で御しようとしたのか、眉間に皺を寄せて、こちらを見た。
兄貴が、まっすぐに俺を見た!
息の根が止まり、また危うく気絶するところだった。
「おまえは僕に触れてもかまわない……」
兄貴はそう言って、俺の頬に手の平を添えた。生まれてはじめての体験に、俺の目からは涙が溢れ出た。
くそっ、そういうのは全部押さえ込もうと決めたのに。
困らせるな。
指が濡れてしまうだろう、汚してしまうだろう?
それでまた、避けられたらどうする?鳴らない電話、空っぽの部屋、知らない名前。
そんなことにもうとても耐えられない。
「ブラクストン……」
ブラクストン、と兄は俺の名を呼んでくれる。こんなのは嘘だと喚きたい気持ちと、手の平から伝わってくる熱に、俺はどうにかなってしまいそうだった。
「ブラクストン……僕に隠し事はするな……」
それにこんなことを言われたら、その通りにするしかこの痛みと苦しみから逃れる術はないのかと思ってしまう。
「愛してるんだ……愛してるんだよ……」
俺はあんたを、愛しているんだ。
他にも何もいらない。
兄貴だけでいい。
「……だから、助けてくれ……」
死にそうなんだ、骨がいくら折れたってかまわないけれど。胸の痛みと喪失の恐怖で人は死ぬんだよ。
兄貴、知ってたか?
「わかった、ブラクストン……。僕はおまえを必ず、助ける」
そう言って兄貴は、俺の額に。
頬に手を当てたまま、
キスをしたのだ。
「あ……」
「……僕はおまえを助けると言ったんだ」
俺は兄貴が嘘をつくことができないのを知っている。
「もう大丈夫だ……」
だから、これは真実なのだ。夢でも、死後の世界でもない。
「……愛してるんだ……」
「ああ、ブラクストン」
僕もだ、と今度は少しだけ目を伏せて兄貴はそう言って、医者に行こうと続けた。
嫌だ、と言う。
すると兄は「そうか」とだけ返して、ふうっと長い息をついた。そして、軽く咳払いをした後に、こう続けた。
「少し手を放すが、体勢を変えるだけだ……」
「どう変える?」
すがるような女々しい響きに俺は顔をしかめた。すると「痛むのか」の問いかけだ。俺はそれを否定して、それでもやはり、求めるように兄を見てしまう。
「おまえが望むように……上手くできるかどうかはわからないが」
「それなら、手を握っていてくれ……俺が眠るまででいいから……」
それでも、夢のようなことなのに。
「……僕はおまえを助けると言った」
そう言って兄貴は繰り返して、俺の手を少し強いくらいの力で握ってくれた。
「目を覚ますまでここにいる」
「……でも……」
ここにいる、と言い切った兄貴に逆らう気力もさすがになくて、俺はまた少しずつ意識を手放していくしかなった。
今日は、頭がどうかしているから。
俺はもうこれしか口にできない人形みたいなものだ。
「愛してる……」
「ああ、そうだな……」
兄貴はその返答が自分でも面白いと思ったのか、笑みの欠片を見せてくれた、気がする。
俺は、目を閉じて、もう一度だけ愛していることを兄に告げた。
その返事は、また、額へのキスだ。
これが夢ならば。
一生、目を覚ましたくないと願うほど。
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やりすぎたっちゃ。
ブラクストンはもっと全然大丈夫な人だと思ってます……