2014年8月に出した本からの再録です。
うちのステバキはいたしてないと思ってたんですが、いたしてた模様!(ぬるいけど)
大発見!!!
(すぐ自分で書いたことを忘れるマン)
宿営地の食堂は仮にテントごしらえの時でも、戦時中とは思えないほどに賑やかだ。あちこちで笑い声が響き、皿がぶつかる音がする。
いや、戦時中だからこその騒がしさかもしれない。この一時でしか息を抜くことができない、という状況もあるだろう。
バッキー・バーンズはこの雰囲気が元々、少しだけ苦手だったけれど(何しろ軍曹という立場上、上にも下にも気を使わないといけないからだ)今はありがたいと思えるようになった。
会話らしい会話をしなくても、賑やかさが場の雰囲気を保ってくれるし、気の向く話にだけ顔を上げれば良かった。口元に笑みを浮かべて頷いたり、眉をあげたりしているだけでことは足りる。
それに、だ。
こうしてささやかながらトレイの上が埋まるだけの十分な食事をナイフとフォーク、スプーンを使って談笑しながら食べるという時間の貴重さを知ってしまったから、とも言える。
それが良いことかどうか、判断する必要はないのだけれど軍医の思わせぶりな笑顔を見ると舌打ちもしたくなる時もある。
言外にこう言っているように思えるのだ。
『良かった。本来なら、助からなかった命だぞ』と、そんな風に。
まあ、仕方がない。
そんな風に感じるのもまた、帰還捕虜の扱いが良いからということにほかならないし、軍医の言ったことは事実だった。
どれぐらいの間、捕虜になっていたかどうかはまだはっきりとしたことがわかっていないが、バーンズ軍曹は他の皆とは別の場所へ連れていかれ、何度も気絶をして拷問を受けていた、ということだけはわかっている。
傷もまだ、残っていた。
痛みはもうない。
「へえ……?」
そんなことをしばしの間、忘れることが出来るのが食事時、だったはずなのだが今日は少しばかり様子が違っていた。
と、いうよりそれはあくまでもバッキーにとってのことだったのだが、らしくなくその声に思い切りわざとらしさを滲ませ、小さく舌打ちをしてしまった。
それはまるで書かれた台本を読むように白々しい響きを持っていたと思う。しかし、誰に聞こえたわけでもなく、当然バッキーには取り繕う気もなかった。
すぐに目を逸らすように体の向きを変え、仕切り直しをする。その動きは何事もなかったように、と言うにはあまりにも恣意的だった。それもまた、誰に気付かれたわけでもない。
改めて視線を上げればいつもの仲間のところに一人分の空席があった。同じく帰還捕虜であり、前線でともに戦う部隊、ハウリング・コマンドーズの仲間たちが手を振っているのも見えた。
空けておいてやったぞ、の合図にバッキーは苦笑を返す。
「どうした、今日の子守りはなしか?」
古株のデューガンが明らかに二人前の量を盛った皿からスプーンいっぱいのシチューをすくい上げて頬張りながら笑う。彼にはそういうことが許されている雰囲気があり、誰も見とがめて文句を言うこともない。
それからもう一人、それが許される男がいた。
「あの通り、人気者だからな。隣に座るのもチケットを買わないと難しそうだ」
肩をすくめてそう答えたが、ジョークにならないことをバッキーは知っていた。かつてのひ弱で、病気がちな親友スティーブ・ロジャースはバッキー達が捕虜になっている間、スーパーヒーローに生まれ変わっていたのだ。
文字通り、見事に、姿形を変えて。
顔立ちや、性格はもちろんそのままだったが、二回りは大きくなっていたし、筋肉の容量など五倍はくだらないのではないかと思うほどだ。
今まで目線を合わせるために下を見たり、首をかしげてのぞき込む必要があったが、今は大きく見上げるほどだ。それに、今の彼と同じような体形の男と比べても、その力は段違いになっていた。
実験の成果だと言ってスティーブは喜んでいたが、バッキーとしてはそうでもない。いや、彼が喜んでいるのは何よりだとは思うのだけれど、親友が実験台にされたのがまず気に入らないし(失敗した例をこの目で見てしまったから余計に!)、今後どうなるか誰も保証出来ないのだ。
研究の第一人者だった博士は死に、引き継いだものは誰もいないと聞いた。
軍医に少しだけ質問したところ、唾棄するように「神の領域に手を出した」と博士を非難していたから、他の医者も似たり寄ったりの反応を示すのだろう。日曜学校に嫌々行っていたような子供だったバッキーですら、背筋がざわつく思いがしたのだ。
こんなことが許されていいのかという疑問と、本当に肉体だけの変化にとどまるのかどうかという不安で。
それから、もう二度とかつてのスティーブに会えなくなってしまったということよりも、彼を認識出来なかったことがまず何よりも辛かった。
捕虜にされ、想像をしたこともないぐらいの酷い拷問を受けている間、ずっと繰り返し思い出すようにしていたのがスティーブのことだった。
今、彼はどんな絵を描いているのだろう、どんな本を読んでいるのだろう。もう一度、彼から届いた手紙を受け取ることができますように、と願った。
できれば死ぬまでにもう一度、彼と話がしたいと、それだけを支えに命を繋いでいたような状況だったのだ。
それでもスティーブのことを、すぐに彼だとわかってあげられなかったのが辛かった。
しかし、バッキーのそんな思惑はきっとスティーブには欠片も届いていないのだろう。二重三重にも周囲を取り囲まれている彼からこちらは見えやしない。一人で路地裏で理不尽に殴られていた少年はもうどこにもいない。
「いつもあいつ、全部食べきれなくってさ……」
俺が残りを全部食べてやっていたんだ、なんてことをついつい思い出してしまう状況も面白くない。下手なノスタルジーに唆されている場合ではない。熱を出さなくなって、咳込んで涙目になってしまうこともこれから一切なくなるというのは良いことだ。
それは、十分に承知している。
それでも、だ。
「まあ、子離れできて良かったじゃないか」
「まあな、俺としちゃ、あいつが苛められたりしなきゃそれでいいんだ」
それでも、きっと彼を取り巻く人間には目を配る必要が出て来るだろう。場合に寄ってはそれ以上のことも。
とてつもなく彼は良い人間で、まっすぐな男なのだ。それをろくでなしに利用されないとも限らない。誰もかもが彼を盾にすることは、どうしても許してはおけない。
まあ、それでも食事中にそんなことをする人間はいないだろう、とは思う。
ただ、彼から背を向けてしまったのには別の理由があった。
遠く離れた席で、二つのトレイに山ほど盛られた食事を次から次へとたいらげて行く親友の姿は、バッキーの知らない姿だった。あんなに大きく口が開くようになったのか、と肩をすくめてしまうほど。
シチューも、とっておきのステーキ肉も、パンも、ソーセージも。兵糧部門の人間が大盤振る舞いをしているようだが、誰からも文句は出ようはずがない。
彼は、まごうことなき英雄だから、だ。
これからも先頭に立って軍を率いてもらわなくてはいけない。喝采がスティーブの耳にどう届いているかはわからないが、バッキーにはその盾を持って彼を前線に立たせるために盛り上げているようにしか聞こえないのだ。
バッキーにはそれを目の当たりにするのが耐えがたかった。
英雄などにならなければ、危険な目に合わずに済むのに。
しかし、彼は自分を救うために英雄になってしまったのだ。そのせいで、前線に立つことを今後半永久的に強いられるということを彼はわかっているのだろうか?
超人血清がどんなものかはわからないけれど、不老不死の妙薬というわけでもあるまい。
だから、バッキーはこれからもスティーブの傍にいるつもりだったけれど、彼がそれを必要とするかどうかはまだわからないままだ。帰還後、ろくに話をしていない。
「そういうものか?」
デューガンの釈然としない声にバッキーは大きく頷いた。
「そういうものさ」
と、自分に言い聞かせるように答えたバッキーはパンを小さくちぎり、口の中に押し込むようにして食べ始めた。
「ん?」
シチューの味も悪くないな、と思いながら仲間とのおしゃべりを楽しみつつ食事をしていたバッキーだったが、不意に隣に座っていたモリタが机をトントンと指で叩いたので、そちらに顔を向けた。
元々無口な彼は何を言うわけではなかったが、あごの動きと目線で向こうを見ろ、と合図をくれた。何だ?と遠くに視線を投げかけたそこにいたのは、スティーブだ。
こちらを真顔でじっと見つめていたのだ。
どちらかと言えば、非難がましく何か言いたげにも見える表情だ。
「なんだ、あいつ」
そんな顔をされる言われもない、と反射的にバッキーは眉を寄せ、少しばかり睨むようにスティーブを見返してしまった。少なからず、八つ当たりの自覚はあった。先ほど、こちらを見向きもしなかったのは彼の方だと言うのに。
そう大層なことを考えてはいても、こういう子供じみたふて腐れた気持ちがなかったとは言わない。しかし、スティーブがどうしてそんな態度を取るのかまでは理解が及ばない。
あんな風な表情は、見たことがなかった。
「……変なやつだな」
ほんの十秒ほど、目が合っていたのだが結局スティーブの方から視線は逸らされた。バッキーは少し気になるものを感じたが、かつてのように彼の傍に駆け寄って、理由を問うようなことはしなかった。
周囲の雰囲気がそれを許すとは思えない。卑屈ではなく、バッキーは明らかになった自分と親友の立場の隔たりに、もう一度肩をすくめて、小さく息をついた。
数分して、ちらりと後ろを伺った時には、スティーブはすでにまたすっかり人垣の中に隠れて見えなかった。
彼の目に、今の自分はどう映っていたのだろう。
同じ目線に立ってみたら、存外大したことがないとでも、思ったのだろうか?
*** *** ***
食事の後、ハウリング・コマンドーズの仲間と少しの酒を楽しんで、後は眠るだけの時間、バッキーは何度となく懐中時計の文字盤を見やってはいたが、目を閉じる気になれずにいた。
ふと意識が途切れると、見たことのない表情を見せたスティーブのことが頭をよぎるのだ。何を言いたかったのか、聞きたい気もするし、うやむやにしておいた方が良いような気もする。
しかし、かつてのバッキー・バーンズならどうしたか、と自問すると答えは一つなのだ。
ふうっと一息つくと、バッキーはそっとベッドを降り、当然のごとく一人部屋を与えられているスティーブの元へ、向かった。
ノックは三回。
「……バッキー?」
声一つ出してもいないのに、扉の向こうから名を呼ばれ、バッキーの手は一瞬震えた。そして、胸の奥の方をぎゅっと掴まれた気がして、言葉を失う。彼はずっと自分を待っていたというのだろうか?
ここで、こんばんは、という挨拶も白々しいだろう。上官に対するような態度を取るのもどうかしている。夜更けに不躾に戸を叩いただけで、連隊によっては軍法会議にかけられてもおかしくない。
だからゆっくりと扉を開けたものの、バッキーはその先をスティーブに委ねるしかなかった。
「……やあ……」
スティーブのその声は熱を出して寝込んでいたような時よりもずっと弱々しく響き、バッキーは胸をさらに強く、押し潰される感覚に下唇を噛んだ。痛みよりも、苦しいと言った方が近い。
窓を背にして立つスティーブは、やはりバッキーより一回り大きい見事な体躯の凛々しい青年だった。
月明かりだろうか、輪郭が柔らかい光に照らされていて、薄暗い部屋の中なのに眩しさを覚え、バッキーは目を細める。
しかし、それがいっそうスティーブの表情を曇らせた。
「ヘイ……、スティーブ。どうしたんだ?」
ようやく、掠れてはいたが、バッキーは決まりごとのようになっていた言葉をどうにか紡ぎ出すことが出来た。そして、すぐ傍にまで歩み寄り、それこそ物心ついた時からそうしてきたように、額と額をこつんとぶつけて(今までとは違い上目使いにはなったが)、青い目をじっと覗き込む
ヘイ、泣いてるのか?
どうして、何があった?
「……僕は……浅ましいんだ……」
ふっくらとした、形良い唇が震えていた。かち、かち、というのは歯がぶつかる音だろう。
スティーブは自分を助け出してくれた時、少しも怯えを見せていなかった。次々と火の手が上がっても、銃弾が飛び交っていても、ひるむことはなかった。
それなのに、どうして今。
こんなにも、怖がって震えているのかがわからない。
俺はおまえに、何もしやしないのに!
「……バッキーは絶対に……僕の隣に、座ると思ったんだ……」
しかし、彼から返ってきた言葉は、もう少し、いやずっとずっと視野の小さな話だった。相づちを打つことも出来ないぐらい驚いたバッキーだったが、表情を見るにスティーブは本気だ。
「振り返ったら、どこにもいなくて……」
取り巻きに邪魔されたんだよ、とも言えず、バッキーは肩を落とし、大きく息をついた。それは重いものではなかったが、呆れ返った気持ちは通じただろう。
しかし、それだけでスティーブの肩がびくっとひきつり、頬も強ばった。
「どうした、スーパーソルジャー……」
これではまるで大事な置物を割ってしまって途方にくれる子供のようだ。バッキーは顔を近づけた格好のまま、極力おだやかな声で囁く。
そして、鼻先を一瞬、触れあわせてにっこり微笑みかけた。
「もっと頑固で、意地っ張りで偏屈だったろう?」
俺の言うことを聞きやしなかった、と暗に軍隊入りしたことを揶揄しつつ、落ち着かせるために頬から首、鎖骨のあたり、そして、肩と自分の手の平を数秒ずつ押し当てていく。体温が伝われば、少しは安心するだろう。
どうして捨てられた子犬のような顔をしているのだろう。
俺が何をした?
「……自信がついたんじゃないのか?夢も叶ったじゃないか」
兵士になって国のために戦う。
それが彼にとっての長年の夢だった、はずだ。バッキーその夢の実現を少しも望んではいなかったが、口にしたことはない。
だから、今、こんな風にしょげてしまっている本当の理由が思いつかない。
だってそうだろう、まさか食堂で一緒に食事をしなかった、それだけでこんな風になってしまうはずがない、と普通は考えるはずだ。
「き……君に関してはもう……すっかり自信をなくしてしまって……」
俺に関して?とバッキーは首をかしげるしかなかった。少し顔を離したところから、改めてスティーブの表情を伺う。こんなにもナーバスではっきりしない彼を見るのは始めてだ。長い、金色のまつげが頬に影を落としている。
お互い、変わっていないようで、変わってしまったのだろうか?そう思うとじわじわと悲しみに足先から浸ってしまいそうだけれど、どうなのだろうか。
スティーブと別れた日の後、バッキーは幾人もの命を奪っていた。それは大きな変化だろう。
それから、捕虜としての日々が傷跡以上に自分に変化をもたらしたのだとしたら、もはや、このすれ違いのようなかみ合わなさに未来はないような気すらしてくる。
嫌だな、とバッキーは漠然と、ただ強く、そう思った。
どうして、戦争なんかのせいで二人の関係が壊れるのか、納得が行かない。
「バッキーの背中を見ながら……僕は毎日祈ったよ。強くなりたい、強くなりたいって……」
ああ、とバッキーは小さく返し、拳を握りして話し出したスティーブにこの先を委ねることにした。
「実験が成功して……、思ったよ。これなら、僕でもバッキーを守ることができるって」
うん、とバッキーは頷いて、一歩、足を後ろに下げた。守る、という言葉が、嬉しいと思える人は確かにいるだろう。今も嬉しくないわけではない。
ただ、スティーブの言葉となると話は別だ。
彼は、自己犠牲心も他の人間よりずっとずっと強い。
彼の守る、という言葉にはそれだけの重さがある。昔から、彼は一切の勝ち目がなくても、どれだけ酷く殴られても立ち上がって、何度も何度もその正義を示そうとしてきた。
助けに入らなければ、それこそ死んでしまうような怪我を負うことがあったかもしれない。無理はするなと言っても目の前に困っている人が一人でもいたら避けることはできないのだ。
その彼の「守る」という言葉はまるで時限装置だ。
「でも……」
「……大丈夫だ、スティーブ」
遮るつもりはなかったが、恐ろしいことを聞くぐらいなら、と考えたバッキーはそう言いながらも、もう半歩、後ろに下がった。
距離を取りたかった。
この先の言葉を聞くのが、怖かった。
「違うんだ、バッキー……僕は……言ったろう?浅ましいんだよ……」
そんな悲しい顔を見せて欲しくなかった。
なぜ、そんな顔をするんだ!
理解ができないことによる混乱は頭痛を呼ぶ。バッキーはこめかみに親指の付け根のあたりを強く押し当ててやり過ごそうとするが、効果はさしてない。ずきずきとした痛みが脈音に合っているのがわかったぐらいだ。
「バッキーを助けて……、君にもう一度会うことが出来て……、欲が出た……」
欲……?何の話だ、とバッキーはなおいっそう怪訝そうに眉を顰めた。痛みが増したような気がする。
すると、スティーブはゆるく頭を左右に振って、今日一番、悲しいスマイルをこちらに向けてきた。
それから、言葉を失っているバッキーの前に、膝をつき、腰を落とす。
深い呼吸を繰り返し、ぐっと奥歯を噛みしめたように見えた。
「……バッキー……」
言うな。
バッキーはそう言おうとしたのに、その喉が震えることはなかった。熱い手で、指先を捉えられ、まっすぐで強い視線で見上げられる。
そうだ、どれだけ喧嘩に負けても、どれだけ軍の募兵検査で振り落とされても、彼の視線はいつもこのぐらいしっかりとまっすぐだった。
バッキーはその視線の強さと、指先から伝わってくる彼の早打つ脈音を感じながら、小さく頷いた。
言うな、という言葉にはならなかった。
スティーブは一度、ゆっくりと目を閉じ、それからさらに倍の時間をかけてゆっくりと開いた。
ああ、なんてきれいな色なんだろうな、おまえの目は。
「……どうか、僕のものに……なってください……!」
その台詞を、何冊の本から探して抜き出したのか、バッキーにはわからない。その本には、順序があるということが書いていなかったのだろうか?
あまりに古風過ぎて、順序が違ったのだろうか?
「バッキー……」
つい、先ほどまで二人は親友同士だったはずだ。
それなのにスティーブはこの一言で二人の関係を変えてしまう気、らしいのだ。
どうしよう、とバッキーは呟いた。
ような気がした。
「……んんっ……」
しかし、実際は、こうだった。
ぱっと手を振り払うようにしたのは一瞬、すぐに自由になった両手でスティーブの頬を挟んで、そのまま、唇を重ね合わせたバッキーは驚いて反射的に開かれたスティーブの唇の間に舌をすべりこませ、性急に歯列をなぞり、噛みつくような深いキスへと移行する。
今まで自分に焦がれ、恋心を寄せてくれた女性たちの誰ともしたことのない口付けにバッキーの体温は上がったような気がした。
喉が鳴り、口元が笑みの形になってしまうのは、あたふたと両手をばたばたさせて慌てているスティーブの様子が見られたからだ。
しかし、その動揺と、真っ赤に染まった頬、潤んだ瞳とは違い、言葉だけは真摯で、そして、独善的だった。
「……もう…っ、バッキー……君が囚われる姿なんて……見たくないんだ……」
どこにも行かせない。
聞いたことのないその語調は、バッキーの苦しく押し潰されそうだった胸の痛みを不思議と和らげる。
そして、新たな火を灯した。
「オーケイ、スティーブ……」
答えは、イエスだ。
そう耳元で囁くと、バッキーはスティーブの肩を強く押すようにしながら、自分の体重をかけていく。
けしてこれは青天の霹靂ではなかった。バッキーはそれをスティーブに言葉にして伝えるべきかどうか少しの間、考える。
何度、彼の額にキスをしてきたか、知らない。
熱にうなされる彼の手を一晩中握って夜を徹したことも、何度だってある。
どれだけの時間を一緒に過ごしてきたと思っている?
「……バッキー……、き、君はとてもきれいだから……」
バッキーはスティーブが密かに描き溜めていた自分の絵が幾枚もあるのを知っている。
「ずっと、そう思ってたんだ……」
熱っぽい視線に気付かなかったとでも?
まさか!
「ありがとう」
少しだけ目を細め、にっこり笑いかけるとスティーブの白い肌がそれこそ絵に描いたように、赤く染まった。キスに濡れた唇が、また少し震えた。
おずおずと背中にまわされたスティーブの腕だったが、勇気を振り絞ったのか、やがて自分の方へと引き寄せるように力がこめられる。今更ながら彼の抱えてたコンプレックスには色んな形があったのだ、ということを知ることになる。
確かに、かつての彼の腕は、こんな風にがっちり息が苦しくなるほど強く抱きしめるにはむかない。もし、彼が細い腕で抱きしめて、同じセリフを口にしていたとしてもバッキーはイエスと答えた。むしろ、安全圏に彼がいてくれるのなら、もっと屈託なくそれを受け入れられたと思う。
口にはしないし、できないが。
こんな風に、手を触れずともわかるほどの興奮を示すものがなくても、こちらの体を支える力がなくても、スティーブがスティーブでありさえすれば、バッキーにとっての無二の存在なのだから。
言葉にすれば大げさ過ぎて、とても信じてもらえない。
「ヘイ、スティーブ……練習はしてきたのか?」
下半身を軽くすり合わせるだけで、彼の熱を集めた箇所がどれだけの固さになっているのか、容易に想像できた。ぶるり、とバッキーの体が震えたのは寒さでもなければ、恐れでもない。とてつもない期待からくる興奮のそれだ。
「……ま、まさか……」
「良かった」
え、何が?
意を得ず目を丸くしたスティーブにバッキーはちゅ、ちゅ、とわざと音を立てるように、唇をついばむ。それから唇同士をすり合わせ、会話を促すように舌先でつついた。
空いている手は、彼のベルトにかかる。
その時だ。
「バ、バッキー……ちょ、ちょっと待って……!」
スティーブが裏返ったような声を上げたのは。
「ん?」
バッキーは目の回りを真っ赤に染め、流し目でスティーブの反応を伺う、指先でしっかりと浮き上がったペニスの形を探り、その固さと太さを確かめる。ちょっとした凶器だな、と把握しながらも、口元の笑みは濃くなるばかりだ。
これは明らかに軍紀を逸している行為で、親友同士がする行為でもない。
でも、自分は「死ぬはずだった男」で、彼は「死ぬ覚悟で変化を受け入れた男」だった。すべてを失うことを一度、受け入れてしまった二人の間に倫理も常識も関係なかった。
お互いが、一度は夢に見た行為が、セックスなのだとしたら、それが正解なのだろう。
ただ、スティーブはこの行為に未来を見て、バッキーはいつか来る終わりを見ていたのだけれど、キスではそれを伝えることはできない。
それで良かった。
「ひ、膝が痛いだろう?その、ベッドで……」
そこまでを口にしたスティーブは、ゆっくりと体を起こす。そして、少しばかりはにかんだように笑うと、本で読んだだけじゃ駄目だな、と眉を寄せた。
「王子様が運んでくれるんだろ?」
紳士的に上手に振る舞えない、と落ち込みを見せ始めたスティーブにバッキーはそんな風に言って、助け船を出してやることにした。腕を彼の首に回し、小首をかしげて悪戯っぽく微笑む。
「あ、う、うん!」
それから頬におねだりのキスをすれば、完璧だ。エンジンのかかりにくい戦車みたいだな、と思っているうちにバッキーの体はふわりと浮いた。
その浮揚感にバッキーは一瞬息が止まるほどのせつなさを感じたが、唇を噛んでやり過ごした。
なぜ、泣きそうな心地になったのかわからない。
ノスタルジーのせいなのか、プライドのせいなのか。
ただ何かが失われた気がしたのだ。
「……十五歳の時の夢が、これだったんだ」
でも、嬉しそうなスティーブの声を聞けば、失われるものばかりではないこともわかる。
抱き上げられた格好のまま、もう一度、バッキーはスティーブの頬に唇を押し当てた。今度はご褒美のそれだ。
「……夢がかなった気分は?」
そう尋ねると、
「世界で一番の幸せ者になった気分だよ」
不謹慎だけれどね、と幸福感に満ちたスマイルとともに言われたので、バッキーはほの暗い自分の考えをどこかに追いやってしまう必要があった。
そう、得るものだってあるのだ。
「俺もだよ、スティーブ」
ベッドに、優しく横たわらせられたバッキーはそう言って、シャツのボタンに指をかけた。
スティーブの拙い愛撫は、それでもとてつもなく丁寧で、それから驚くほど念入りだった。もう彼の唇と指先が触れていないところはないのではないか、と思えてくる。
お勉強はしていない、そう言ったがスティーブの舌はバッキーの後孔を、ふやけるぐらいまでに濡らした。しかし、続きを求めてひくついていることがわかるぐらいになっているのに、求めるものはまだやって来ない。何を参考にしたのか、後で絶対に問い詰めてやろうとは思っているが、今はそんなことを言葉にできるような状態ではなかった。
「スティーブ……、もう、いい……、か、ら……」
その拙さから、後一歩のところでせき止められているような感覚が長く続き、頭の奥が熱に浮かされたようにぼうっとしてきているのだ。自分の手でこすりあげてしまいたいと思うのだけれど、スティーブの手が枷のように、その自由を奪っている。
バッキーのペニスは透明の滴をとろとろと絶え間なく流し続けている。彼の読んだ(と勝手に推測する)本には若干の問題がある気がする。
このままでは気が変になりそうだ。
「口で……、させてくれ……」
耐えきれず、バッキーはスティーブに懇願した。彼とて辛いはずなのだ。抱きあう前から臨戦態勢だったその木の幹のように固い彼のペニスは、いまだにその勢いを失っていないどころか、時折びくびくと震えるのだ。
すっかり規格外になったそれを、今度はこちらが濡らしてやらないといけない。バッキーは返事を待たずにその先端のふっくらと盛り上がった部分を唾液があふれんばかりになった口の中に招き入れた。
火傷しそうな程、それは熱かった。唇がめくれるほどに大きなペニスの先端をまず上あごにこすりつけ、甘い感覚が腰のあたりを熱くする感覚を楽しむ。
それから唇で作った輪で側面を締めつけるようにしながら、顔を上下させた。
やり方はわかっているが、バッキーにとってもこんなことは初めてだ。口の中いっぱいに広がる苦さも、男臭い、低くうなるような声で声を上げるスティーブを見るのも初めてだ。
反応が気になって、口いっぱいどころか喉の方にまで招き入れながらの格好で、見上げると、頬を紅潮させ汗だくになっているスティーブが、まっすぐにこちらをじっと見ていた。
歯を食いしばりながらも、その視線は真剣なもので。
「ああ……、バッキー。なんて、君は……こんなにきれいなんだ……」
うわごとのように言いながらも、その手は優しく頬に添えられていた。男の本能で後頭部を押さえつけるようにして、腰を突き上げてもおかしくないのに。
「……バッキー……」
十分過ぎるぐらいに濡れたペニスにはくっきりと血管が浮いていた。それを唇で潰すようにしてやえると、スティーブの歯ぎしりが大きくなる。
そろそろ限界だな、と銜えたまま微笑むと、スティーブは泣き笑いのような表情で頷いた。
「なんだ、遠慮してたのか……」
ようやく、バッキーは自分が限界まで焦らされていた理由に気付き、口の中のものを吐き出し、濡れた唇をぬぐうことなくぽつりと呟いた。
「……うう……」
ばつが悪そうに視線をそらしたスティーブに、バッキーは身を寄せ、おまえの好きなようにしてくれ、と囁く。四つん這いになれと言われればそうしたし、上に乗っかって欲しいと言われれば、喜んで跨いでやったろう。
しかしスティーブはそのどちらでもない、希望を口にした。
「……キスをしながら、抱きたいんだ、バッキー」
それから、目を閉じないで欲しい。
「僕は君を、失いかけたんだから」
もう、絶対に見失いたくない。
その強い決意にバッキーは茶化すことも、礼を言うこともできずにこくりと頷くしかなかった。
再びシーツに背を預け、両の足を大きく開いた。すべてがさらけ出されるような格好でも、少しも恥ずかしくはなかった。
「……あ……、ああ、あ……」
丁寧なキスの合間に、スティーブの進入は始まった。柔らかくほぐされた場所は、まるで石膏型を取るように、隙間なく彼のペニスを受け入れていく。内蔵を直接押し上げられるような苦しさは少しの間のことで、すぐに想像もしていなかったような充足感がバッキーを指先までしびれさせた。
「ああー、うぅ…っ、ん、ん……」
体を重ねる行為にさほどの意味を感じたことはなかった。人肌が欲しい夜や、無害な好意を寄せられるのが心地良い時はあったけれど、まさかこんなにも感情の芯のようなものが揺さぶられるとは思ってもみなかった。
思わず、口走ってしまいそうだ。
愛しているだとか。
このままどこかに逃げてしまえればいいのに、だとか。
彼の信条を壊してしまいかねないような、酷い言葉を。
「バッキー、バッキー?」
大丈夫か、と聞かれて初めて、自分が一瞬で絶頂を迎えていたことを知る。ぐずぐずに溶けたよううになっている下半身の感覚が確かにはっきりしない。
「……スティー…ブ、だ、大丈夫だから……、して、……続けてもっとして……」
舌足らずな声を恥ずかしがる余裕もない。腰を捕まれるだけで、快感が走る。頬をすり寄せ、舌を絡ませ唾液を交換して、体がはねるほどの強く腰を打ち付けられ、声を上げる。
体の奥の奥までスティーブの進入を許していた。
「バッキー、バッキー……!」
スティーブも上擦る声を抑え切れずに、愛しい人の名を呼びながら腰を前後に激しく揺すった。
濡れた音も、汗のにおいも、喘ぐ声も戦場にはふさわしくなかったが、二人はそんなことはどうでも良くなるぐらいに、快楽の虜になっていた。
頭の中がそれだけになってしまうのも、時間の問題だった。
「……スティーブ……、あ、ああ、もう……っ、駄目、だ……め……」
すっかり腰が浮いてしまっていたところ、ずん、と勢いつけてスティーブが奥の奥までねじ込まれた。
「うっ……!」
そして、彼は顔をしかめ、ずっと抱え持っていた熱情を一気に迸らせた。熱い奔流が体内に注ぎこまれる感覚に、バッキーは声にならない声をあげ、ふるふると震えた。彼自身もまた、とろりとした白濁を自分の腹部に広げていた。
そして、最後の力を振り絞るようにして、足を上げ、スティーブの腰に絡めた。一滴ももらしたくない、とでも言うように。
どく、どく、と腹部いっぱいに脈音が響いているような気がする。
「ヘイ、スティーブ……、まだいけそうか?」
答えはわかっていながら、バッキーは汗で全身をぐっしょり濡らしたスティーブの背にも腕を回し耳元で囁く。中に残っているものは、まだしっかりとした固さを保っている。
「ね、眠らせてあげられないかも……」
ごめん、バッキー。
そう言って、すまなそうに眉を寄せるスティーブにバッキーは、今日一番の笑顔を返した。
馬鹿だな、坊や。
こんな幸せが続くなら、もう夢を見られなくなったっていいぐらいなのに!
「……君が、大好きだ。バッキー」
笑顔のお礼に過ぎた言葉をもらったバッキーは、やはりぶり返したようなせつなさに泣きそうになりながらも、もう一度、彼の目を見て笑った。
朝なんて来なければいい。
このまま時間が止まってしまえばいい、そんな願いを胸に秘めながら。
*** *** ***
「……ああ、すっかり逆転だな、スティーブ」
バッキーは掠れた声でそう言って、苦しそうに唇の隙間から、熱の混ざった吐息を漏らした。無茶をしすぎた、と言うよりも、バッキーの体調が十分に戻っていなかったせいだろう。自覚症状でもわかる、ずいぶんな高熱が出てしまったようだ。
「ごめん、バッキー……、ごめん……」
昨日の行為の最中、明かりをつけなくて正解だった。まだスティーブは残った傷跡に気付いた様子はない。
気付いていたら、ついに泣かれたかもしれない。
まあ、今も半泣きだけどな、とバッキーはすっかりしょげ返っているスティーブの頬に手を伸ばし、頬を指の背でそっと撫でる。
まだ、内蔵をかき混ぜられたような感覚と、押し広げられた箇所にその形が残っているような感覚が残っている。シーツの中に潜っている左手はずっと下腹部をさすっているような格好だ。
叩きつけられたものが、まだ残っているような感覚に、バッキーは何とも言えない優越感を感じてしまっている。
スティーブは知らない。
彼が自嘲する、何倍もこちらの方が浅ましいのか、ということを。
「バッキー、どうしたらいい……?」
僕は、何てことを。
顔中にそう書いているようなスティーブの表情に、バッキーは大丈夫だから、と鷹揚に頷いた。
「今日は一日、休ませてもらわないと……。その、上手く、言っておくから……」
「おまえにはできないよ、デューガンに任せておけばいいさ」
青い顔をしていたはずなのに、デューガンの名を出したとたんに真顔になるスティーブに、バッキーはキスをねだるように、唇をなめる。
しかし、スティーブは覚えたての嫉妬をやり過ごすのに必死で、その誘惑に気付かない。
「……あいつは頼りになる男だ。時折無茶をするけど」
目を逸らし、少しだけ頬を膨らませて、僕だってとかすかな声で呟く。
「なあ、スティーブ」
バッキーは頬に添えた手を彼の後頭部にまですべらせ、こちら側に引き寄せる。
「おまえは俺のものなるな……世界を守るんだ……」
そして、絶対に口にしたくなかった言葉を口にする。彼を、人々の希望になった彼が馬鹿なことをしでかさないためにも、魔法をかけておく必要があったのだ。
それは悲しい魔法だったけれど。
「この腕も、この体も、俺のものだけにしちゃ駄目だ……」
愛しているのに、声もなく動いた彼の唇は確かにそう紡いでいたが、バッキーは頷くにとどめた。
そんなことはわかっているし、俺だってその何倍も愛している、と伝えたところで何が良くなるわけではない。
愛情は人を強くするし、また、とてつもなく人を弱くするのだ。
こちらを振り返っている隙が彼を殺すくらいなら、バッキーは自分が消えてしまったほうがずっと良い、そう思えた。
それはスティーブの自己犠牲の精神のそれとは違う。
それこそ、浅ましさだ。
弱さだ。
彼を失うことにどうやっても耐えられない、それだけが理由だ。
「でも俺は……おまえのものだよ、スティーブ」
全部持っていけ、と告げた瞬間。また息ができなくなるような強さで抱きしめられた。もっと苦しくてもいい、もっと痛みがあってもいい。
あと何度、この充足を味わうことができるかもわからないし、これが最後かもしれない。
そんな薄暗いことを考えるのは全部こちらで引き受けよう。
「……バッキー……これからはまたずっと一緒だ……」
そうだな。
そうだな、スティーブ。
「君は僕のものなんだから」
少し、弾むように聞こえた声に答えるようにバッキーはスティーブの首筋にキスの跡を残した。
顔を上げた彼は誇らしげに笑い、胸を張って見せる。彼に言い寄ろうとする女性達への牽制にもなるだろう。
「そうだな、スティーブ」
にっこり笑って見せたバッキーにとっては、これからいくつ積み重ねられるかわからない、思い出だ。
彼の中に、少しでも残されればそれでいい。
それだけが、今、望む、ささやかな願いだ。