RPS-AU Viggo/Sean『DESPERADO』#3

act.02  Memento   @San Diego :Said By Sean Bean

 

「……畜生……」

俺は小さく毒づいて長いため息をついた。

クリスチャンには結局冷たいビシソワーズとチキンサラダを食べさせた。一緒に食べようと甘いチョコレートケーキを一つ頼んだが、彼はひとかけらしか口にしなかった。

しかしそれは教師を困らせるハンストではなく、彼の優しさからだ。俺がチョコレートケーキを好きなことを知っていて、たくさん食べれるようにしてくれた。おいしい、と言って微笑みかけると、彼もかすかな笑みを返してくれた。

それから安心したのか、満腹のせいか彼が助手席で目を閉じてしまったので、つい感傷にやつれたようなくだらないことを考えてしまったらしい。

あの日から一体何年になるか、と数えるとまた重たいため息しか出て来ない。誕生日がくればもう十四年になる。

男はすぐに転院の手続きとご大層な医学博士の名前の推薦状を手に入れ、こちらの大病院に父を入院させた。

俺もエメラルドグリーンのアルファロメオと日中の自由を与えられ、毎日のように見舞いに通ううちに父は少しずつ調子を取り戻していった。あの曇天がいけなかったのか、と思うほど青い空の下で笑顔も格段に増えた。

結局、世間知らずの田舎者であった俺が謎の財産家の正体を知ったのはそれから半年くらい、時が経った後のことだった。

男は慈善家でもなく。

ただの、好色な変態でもない。

彼は恩人だった。そして、クリスチャンの父親だ。名前はブライアン・コックスといった。

それが今となってはすべてとは言え、もし、俺がロンドンの裏側に顔を突っ込んでいたなら彼の正体を知っていただろうし、すぐに父親を連れて逃げ出していたかもしれないと、何度も考えた。

しかし、あくまでも俺は何も知らない不憫な青年でしかなかったのだ、その当時は。

「よう、ビーンボーイ。お勤めご苦労さん。」

アルビノ、というのがこの声の主の通称だ。しかしそれはけしてクリスチャンの前では呼べない名前だった。彼はこの屋敷の車庫係で名前はポール・ベタニーという。俺より4、5インチほど背の高い男で手足も長く、かなりの痩躯だ。年も十ほど若いのだろうか、白い肌と太陽にあたれば白髪にも見えるほどの明るいプラチナブロンドをつんつんと立てた風貌は車庫係と言うより、どこかのロックバンドのメンバーに見える。

彼はにやにや笑いで俺を出迎え、キーを投げると器用に歯で噛みつくようにして受ける。

「静かにしてくれ、寝ているんだ……」

後部先で寝入ってしまったクリスチャンを抱き上げると後は彼に任せて子供部屋に向かうことにするが、今日は挨拶程度で終わらせてくれないらしく、後ろからついてくる。ちんたら歩く時に鳴る、靴の底を引きずる音が耳障りだ。

彼の手でさらに耳障りな音を立てているのはナイフだった。クリスチャンの前では出さないようにと頼んでいるが、彼にしてみれば煙草を吸うのと変わらないくらい、当たり前の行動なのだろう。

ただの車庫係がナイフを玩ぶ、そんな人種であるこの空間は異質だ。大きな門とぐるりを囲んだ壁の中にあるのは、無法者の城。ブライアンは欧州と南米といくつかの『マーケット』を仲介する立場にいる人間だった。その市場はもちろん車やコンピューター、野菜や果物ですらない。本来、存在してはならない様々なものをやりとりする、特別な市場だ。

ありふれたドラマ、当たり前のようにテレビの中でだけ起きうる出来事だとどこかで思っていたことが、すぐ側にある現実として目の前に突きつけられれば、俺は頷くしかできなかった。

金ならいくらでも出してやる、ブライアンはそう言った。

そして代わりに出した条件を俺は飲んだ。

たとえその金がどんなに薄汚れていても、自分の未来が少しばかり暗いものになったとしても、彼が父を救ってくれたことには間違いがないのだから。

それで、良かったのだ。

確かにずっと、そう思い続けてきた。

しかし、少しばかりその「当然だと思っていた」諦念が揺らぎつつある。その原因は色々あって、その大部分はクリスチャンを取り巻く環境についての問題だ。俺の生きる意味であった父が亡くなってからもうしばらくが経ったせいかもしれない。

「なあなあ、噂、知ってるか?」

アルビノはその名前で行動する時、車庫係、ではなかった。

「………何の話だ?」

「ボスが命を狙われてるって噂だよ」

俺はポールの愉快気な顔をじっと見て、それから片頬で笑った。何だそんなくだらない噂か、という意味ではない。いつものことだ、という笑みだ。子供が育ち、暮らしていくには劣悪過ぎる環境なのだ、ここは。彼の、ブライアンの世界というのは。

「ポール、よほどネタがないらしいな。仕事干されているんじゃないのか?」

彼の仕事はその愛用のジャックナイフや、時折仕方がなく(苦手なわけではないが、ポリシーからはずれるらしい)使うライフルでターゲットをしとめる、狩人だ。獲物が野を駆け回るウサギや鴨ならばよかったのだが、残念ながらそうではない。

「ま、俺は護衛じゃないから関係ないけどな。あんたも気をつけろよ」

仕事上のトラブルになった人間をヒットするのが彼の本業だった。もう一人のヒットマンはキリアン・マーフィ、彼は毒殺専門だ。表向きは執事だか秘書のようなことをしているようだが、俺なら彼にお茶を入れてもらおうとは思わない。

こんな風に、今、現在。

ブライアンの周りを固めるいわゆる「ファミリー」の人間は若く、そして少数精鋭だ。ポールもキリアンも、ブライアンの護衛をやっているカール・アーバンも、俺よりみんな若い。お付き弁護士のクリストファー・ランバートだけが俺の二つ上、だというくらいだ。初めてブライアンに出会った時も、彼は少し後ろに控えていた。

出会った頃は何人かいた年配の連中もボスより早くに皆引退した。気を失ったところに点滴を打ってくれた主治医も息子の代に代わり、ジョニー・リー・ミラーという三十代前半の若い男だ。よそからは、その点をからかわれることもあったが、ブライアンはその揶揄を真に受けて怒るようなことはなかった。

イタリア系の連中や、アイリッシュの奴らのように大所帯ではなく(ロンドンでは胴元だったりもしたようで、組織も大きかったらしいのだが)、あくまでアメリカでは仲介業者という肩書きを守りたいのか、あちこちに不動産を買ったり、ナイトクラブを経営したりというようなことには興味がないブライアンは、売り手、買い手双方に恨まれる可能性を維持しながら、金儲けを繰り返していた。

キリアンやポールはバランスを保つための仕事をしたし、カールは二度ほど銃弾をブライアンの代わりに受ける羽目になった。

殺伐。そんな風にしか言い表せない毎日を送っている彼らにおいて、あまりにも自分は場違いだ。表向きの運転手という肩書きも、ベビーシッターという呼ばれ方も、もう一つの仕事についても。

今すぐスナイパーに鞍替えしろと言われてできるものではない。それでも絶世の美女でもない、自分は男なのだ。しかも若くもない。ピラミッドで言えば最下層に身を置いているとしか思えなくなる。

そんな落ち込む気持ちをどうにか抑えることができるのはクリスチャンがいるからだ。せめて、彼がまっとうな大人になって、危険が多い父親の稼業を継がずにすむようにしてやりたい、その一身でここにいるのだ。

何度も何度も、頭の中でそう言い聞かせてきた。

これからもずっとそうなのだろう。

「何で俺が気をつけるんだ?」

気をつけるとしたら、クリスチャンだ。彼は常に誘拐と暗殺の危険にさらされている。それを悟り、しっかと抱きしめるように体を抱えなおすとポールはナイフをバチン、と音を立ててしまい込んだ。

「馬鹿だな、テディベア!じいさんの弱点はあんただろ!」

こういう悪党というのは皆コードネームをつけなければ生きていけないのか、と思う。俺はほとんどの場合ベビーシッターと言われていたが、一番物騒な連中からはテディベアと呼ばれる。それをよし、としてはいなかったのでポールの呆れた声を無視して、ついに彼を振り払うようにして背を向けた。

「いひひひ、ばればれなんだぜえーー!」

きちがいじみた声は耳に入らないふりをして俺はクリスチャンを抱えて屋敷に入った。ホールから螺旋階段を上り、さらに別棟に行ってエレベーターで3フロア、あがったところが子供部屋だった。サンディエゴのダウンタウンの路地裏のフラットに行けばこのくらいの広さに三世帯は住んでいる、それくらい立派な部屋だった。

天蓋付きのベッドにはたくさんのぬいぐるみ。それらは全部俺が買ってきてやったものだ。ブライアンは俺にハリーウィンストンのダイヤを贈るのに、クリスチャンにはクリスマスカードすら贈ることを忘れる。俺が25日の朝、彼の寝室の扉を叩いて無理矢理書かせるのがほとんどだ。

別の愛人と抱き合っていてもかまいはしなかった。ホールに4フロアぶち抜きのでかいクリスマスツリーを飾っておきながら、なんて薄情な男だろうと憎しみを持って見たこともある。それでも彼は、その朝一緒にいた愛人に嫉妬していると勘違いするのだ。馬鹿馬鹿しい。

「……ああ、クリス。起こしたか?」

小さな手が頬を探るように伸ばされた。泣いてなんかないぞ、と微笑んでやると彼も小さく笑いを返してくれる。

「そうだ、次の休み……、船を見に行こうか?」

「はい……」

行きたいです、と続けられた声に俺は頷くと彼をそっと床におろした。今日は家庭教師が来る日だったから昼寝の続きというわけにはいかない。飛び級させたらどうだという話もあったが、普通でいること、が命を守ることに等しいという考えから俺はその考えには反対していた。

どうせブライアンは何も考えていないに違いないからこのままでいい。

「新しいカメラを買ったんだ。たくさん写真を撮ろうな。」

人が見れば親子だろう。風船を買って、手をつないで歩いて、たっぷりのアイスクリームを食べよう。

「ありがとう。」

今、俺がここにいるのは彼のためだ。他に、何もいらない。

***   ***   ***

「……っ!」

クリスチャンにカウンセリングを、と意見した瞬間に俺の口はふさがれた。それ、専用の道具でなかったことだけが救いだが、バスローブのベルトはごわごわしていて、口の中から唾液をすべて奪うので喉が渇き、引き連れるように痛んだ。

腹には年の割に衰えを知らない、というか年のせいか無駄にしぶとくなったものが納められていて俺は抵抗はとうにあきらめていた。抵抗、なんてことはじめからしたことがない。それは条件の内に入っていなかったから。

「あんまり余計なことを考えるな。若くないんだから、顔に出るぞ、ん?」

ブライアンは指でこねくり回すように俺の顔にして、目尻のあたりをぐいっと伸ばした。確かにそこには深い皺が刻まれていて、年、を示す部位であった。彼の愛人にはまだ十代の少女もいる、という噂をポールから聞いたことがあった。弾力のある若い肉体を抱いた後でよく俺の体を見て萎えないものだと不思議に思う。

「………どうした、ショーン。何か言いたいことがあるんじゃないのか?」

どうやら、苦しげに喉を鳴らしたりしたほうがいいらしい。しかしこれ以上長引くと明日がつらいんだ、と思うと彼の希望に答えてやる気がしない。首の下の柔らかい肉を歯でつまむようにして引っ張られる。

「痛いか?」

痛い、思わず目に涙が浮かぶほどだ。明日は一日襟を立てて過ごさなくてはならないじゃないか。そんな恨みを込めた視線にブライアンは目を細め、それから、小さく息をついた。

珍しいことだった。彼は最中に気分を盛り下げることはほとんどなく、こちらがいくらローテンションでもかまわず、したいことだけをする男だった。遊び慣れていてけして乱暴過ぎることもなかった。考えてみれば歯の跡をつけることもまあないことだ。クリスチャンが生まれる前、リゾートに連れていかれた時は部屋から出ることの許されない日が幾日かあったが、そんなことでもない限り「職業柄」から考えるれば十分過ぎるほど、紳士的だった。

俺は自分で口を塞いでいたベルトを取った。そう、別に退路をすべてふさがれていたわけではない、彼が望む「プレイ」だったから、そのように従っていただけだ。

「……どうしたんだよ」

具合でも悪いのか?と俺は手のひらを彼の頬から首にかけてのあたりに押し当てる。だいぶ高い熱が、あるようだった。汗もいつもより多くかいている。こんな時は無理をしなければいいのに。

「…………いや」

俺はゆっくりと体の中から彼自身を引き抜くと、彼をベッドに仰向けに寝かした。

「今、熱冷まし持ってくるから……」

床に落ちていたローブを拾い上げ、羽織ろうとするとブライアンの視線を感じ、俺は肩越しに振り返った。氷嚢も支度してきてやった方がいいかもしれない。

「私とクリスチャンに血のつながりがなかったら?」

その質問は一度や二度、ではなく俺が抱いた疑問だった。しかし今、それを口にする必然性は俺にも彼にもないようなことだろう。しかし答えはずいぶん前に出していたから、俺はすぐに返事をすることができた。

「……俺の養子にするよ」

その答えにブライアンは何も言わず、目を閉じた。完全に寝てしまう前に、と俺は駆け足で隣の部屋へ行き、彼の常備薬を探す。主治医を起こすまだもないだろう、年も考えずに「仕事」に励むものだから、きっといらぬ恨みでも勝って誰かに呪われているのだろう、とジョークにしてしまおうとして、しくじる。

苦手だ、伏せっている姿を見るのは。たとえ誰であろうとも。小さく舌打ちをして、今度はキッチンで(広い屋敷というのはこういうとき厄介だ)氷を取ってきてから、戻る。

「飲める?」

水をコップに入れて顔の近づけるとブライアンは首を横に振った。それから片目だけ開けてこちらを見て、にやりと頬をあげた。それはいつもの、ブライアンのジョークでさっきまでの深刻な雰囲気は忘れることを望まれているのだということがわかった。

仕方がない、と俺は水を口に含むと小さな錠剤を二粒、彼の唇の上に置いて、水と一緒に口移しで飲ませた。

「カウンセリングは必要ない。」

ブライアンは隣に横たわった俺の尾てい骨のあたりをゆるゆるとこすりながら、真顔で呟くように言った。くすぶりが残った体はその動きに反応するが、話題がクリスチャンのことだったので歯を食いしばって耐える。

「でも、普通の子供はもっと笑う!」

「あれは普通の子供ではない。唯一の私の後継だ……」

つぷり、と指先が熟れきった箇所に差し入れられ、俺は背筋をしならせる。畜生、熱のある時くらいおとなしくしてくれればいいのに!しかしその熱、のせいで指が熱くなっているのか、じんじんと納められた箇所がしびれてくる。

「酷い……言いぐさだな……」

「いや、そうでもないぞ」

なぜなら、と言いながらブライアンは指を引き抜くと俺の体を自分の腹の上に乗せるように尻を叩いて追い立てた。俺の、そこは、すでに性器も同然だった。十五年前は意識が飛んで、軽くトリップしてしまうくらいに相手をさせられていたのだから。

そそり立ったものを見れば、つっこみたくなるのが本能だ。

「ん……っあ……ぁ!」

ずぶずぶ、とすでに濡れていた箇所が再び彼のもので満たされていく。やはり体温の高さ同様、そこも時が過ぎる程に熱さを増しているようで、快感と同時に罪悪感を覚える。

「あれはいつか……私の力を望むだろう」

「NO!」

そんなことはさせない、とにらみつけると視線がしばらくぶつかりあう。ブライアンの真意はわからず、俺もそれ以上の言葉を持たなかった。彼の言い分が何一つ、理解できなかったからだ。

「……クリスを……守ってやってくれよ……っ! 頼むから……」

だからそんな「物わかりの悪い」俺に言えるのはこれだけだった。父親らしくできないのなら、せめて彼の身の回りに危険が及ばないようにして欲しかった。

「やれやれ、おまえさんはとんだ贅沢ものだ……」

ゆさゆさ、と下から強い力ではなかったが、大きく揺さぶられて俺は身をよじる。しかし体調の悪いブライアンのことを考えると、もう少しの努力が必要だった。仕方がない、と俺は彼の顔の両脇に手をついた。

無理するなよ、とヘビーな話題の合間にしては優しい声で俺は彼の耳元に唇を寄せた。腰を大きくうねらせて内壁に当たるようにするだけで、俺は十分に盛り上がるのだから。

「……おまえの望みなら、何でも叶えてやろうと言ってあったろう?」

それはアメリカに来たその日に言われた言葉だった。誰にでも言っている言葉だと、真面目に考えたことはなかった。

「ブライアン?」

「………珍しいな。おまえが最中に名前を呼んでくれるなんて。」

小さく笑った。珍しいのはどっちだ?そんな顔をしてはいけない、人間だ。あんたは悪党なんだから、悪党らしく、しなきゃならない。

「……あんた、今日……おかしいよ」

その言葉にブライアンは黙って首を横にふった。腰をつかんだ手は熱く、汗に濡れている。支離滅裂だった、今日の会話のすべてが。突然激昂し、猿ぐつわをして黙らせていたかと思えば、倦怠期の夫婦のようにくだらない言い争い、それから妙にセンチメンタルな雰囲気だ。どちらにとってもらしくなくて、俺は小さく舌打ちをするしか、もやもやした気持ちを表現できなかった。

「ほら、じゃじゃ馬馴らしだ。上手にやってくれ!」

下品だ、と舌打ちをしたすぐ側から頬をぴしゃりとやられた。腹が立ったが反論する気力もなく、そしてやはり彼の熱が気になったので、一気に彼を追い立て、中で受け止めることに神経を集中させた。

それから、彼が脱力とともに、ゆっくりと意識を手放していくまでの時間、俺は息を潜めていたのだけれど、やがて聞こえてきたそう苦しげでもない寝息に、ほうっとようやく安堵の吐息を漏らした。

「……誰だ、あんた……」

目を閉じてからしばらく、ようやく下がってきた熱には表情が緩んだ。

そして、ブライアンの全身の汗をふき、額に冷たいタオルを乗せる、そんなことを繰り返しているうちに夜がゆるゆると明けはじめた。

「らしくないぜ……ボス……」

体が弱ると弱音が出やすくなるということ、と無理矢理決着をつけるとクリスチャンの見送りの時間まで仮眠を取ろう、と寝室の端に置いてあるソファに身を転がし、ゆっくりと目を閉じた。

眠る場所は他にもあるのだけれど、病人を一人にさせておくことは、俺には出来ないことだったから。

***   ***   ***

ブライアンに呼ばれた日は、翌朝クリスチャンを学校に送ってからの帰宅となる。この古ぼけた自宅アパートにはほとんど私物も何もない。ブライアンからもらった高価なものは全部隣にある教会に寄付でくれてやっている。しかし神父のデイヴィッドはそれを受け取りながらも、神の名の下にお預かりします、と金庫代わりに使っていると思っているらしかった。

少し年下のこの神父はきさくで、職業通りまともだったので、ここサンディエゴで唯一と言っていい友人だった。

「今日もきれいなブーケですね」

教会には墓地が併設されていた。小さな教会で、十数人の亡骸、が眠っているだけだ。それでも丁寧に手入れされた庭、子供の歌う賛美歌の聞こえる休日の昼下がり、訥々としてはいたが真摯なデイヴィッドの説教、悪くない場所だった。

「……ああ」

手にしたこぢんまりとしたブーケは俺が自分で用意したものではない。ほとんど、毎日、朝になると部屋の前に置いてある。朝露に濡れていることもないから、夜から置きっぱなしになっているわけではなさそうだ。

正直、気持ちが悪い。俺の知り合いといえばブライアンの屋敷の中の人間と、クリスチャンの学校関係、それからデイヴィッドくらいの狭いコミュニティの中で暮らしている。あとは昔、父親が入院していた病院で知り合った人達だ。

もう、病院に行かなくなって三年になるから、そちらはとうに疎遠だ。

「もっと俺が若い頃……医療費で首が回らなくて花なんて飾ってやれなかったからな。」

誰かはわからない。それでも毎日しつこいくらいに墓参りをする俺の行動を正当化するには適当な道具だった。普通の息子、ではないのだろうと思う。自分がここにいるときに、誰かと鉢合わせることは滅多にない。あって故人の命日、と重なった時くらいだ。

デイヴィッドは微笑まし気に見てくれてはいた。でも内心ではどう思っているかは知らない、俺が他人ならこう言うだろう。異常な執着だ、と。

「もらいものなんだ。家にいないことが多くて、ただ枯らせてしまうんじゃもったいないから。」

それだけだ、と装いになる。本当は小一時間、過ごしやすければ二時間近く父の墓の前に座ってぼんやりしている。何を話かけるわけではないが、見舞いをしてきた習慣を三年経っても変えられないでいる。

「そうですか」

デイヴィッドはにっこり笑うと人に呼ばれたのか、会釈をしてその場を立ち去っていく。

「ダディ……俺がどうして……毎日ここに来るか知ってるか?」

今日のブーケは薄紫や青い色の小さな花をまとめた、可憐なものだった。どうかすると寂しげな色に見えるが、このブーケの恐ろしいところは、その色や形が俺の気分をそのままに表しているところだ。朝はいたたまれなさからクリスチャンとしっかりと目を合わせてやれなくて、悲しくひそめられた眉が目に焼き付いて離れないままだ。

だから、ブルー、なのだ。

「もし……俺が死んでも……」

本当なら教会の門をくぐることだって許されないことかもしれない。父さんは街では珍しいカトリック教徒で俺にもその教えを守るように強いた。だから、知っている。男の愛人をしていることが、どの罪にあたるかくらい。

それから、ポールやキリアンがやっていることを知っていながら黙っている、これは神の前でも、人ととしても、罪に違いない。

「ダディと同じところに行けないんだ……。だから、それまで一緒にいたくて」

地獄に堕ちる、のはほぼ確実だと思っている。死後、どこに吹っ飛ばされても関係ないさ、と嘲笑する前に、ダディに本当に二度と会えないのだ、というのが悲しい。なんて女々しい男だろう。

結局少しはよくなったが、最期まで俺をがつんと殴りつけて叱ってはくれなかった。アメリカに来てからの毎日で俺は本当にグッドボーイ、のふりをしていたから。仕事は夕方からパブの雇われマスターだと言ってあった。夜が激し過ぎて体調があまり良くない時は「酒場での仕事だから、無理はするなよ」と頭を撫でてくれるものだから、うたた寝をするフリをしてうつぶせになり、涙をシーツに吸わせたりしてごまかしていた。

「でもな、俺……あの子が心配だから、もう少し頑張って見るよ」

幸せなんかもうこんな俺には残されてなくて、希望なんてスペリングさえ忘れるさ。クリスチャンを手から奪われたら(それを示唆するような言葉ではなかったろうか?昨夜のブライアンの言葉は)もう、何もなくなってしまうと思う。

そうしたらキリアンに頼むつもりだ。あまり、苦しくないのを、よろしくと。彼ならきっと甘いミルクティーに混ぜて出してくれるだろう。

「本当に、頭の良い子で……大学だってどこでも選べそうなんだ」

この間テレビを見ていたら、今、一番の難関校はオーストラリアのシドニー大学だと言う。彼の四年間の学費くらいの蓄えはあるから、一緒にオーストラリアに逃げてしまうのもいいだろう。

その頃、あのじいさんが生きているかはわからないが。

「……じゃあ、また来るよ」

しばらくして、日がぎらついてきたから部屋に戻ることにした。俺はビーチの美しいこの都市に住んでから長いが、一度も泳いだことはない。日が完全に陰った夜、屋敷のプールで泳ぐことを許されるだけだ。

この肌を焼くことは禁じられている。今だってたっぷりと日焼け留めを塗っているのだ。禁じ手が多いがもう慣れた。

「ポールか……」

白い頭が覗いていた。チェーンをじゃらじゃらつけたレザーのパンツを履いて、びりびりに破れたタンクトップを着てひょこひょこと頭をふっている。昨日からしつこいな、と思いながら教会の門を出ていくと、ポールは待ちくたびれたとでも言うように、大きく舌を出して見せた。

「……何の用だ」

「お迎え、さ」

俺はうすら寒い、予感を覚えて彼の色素の薄い瞳をにらみつけた。しかしポールはにやにや笑いを崩さないまま、一言も意味のあることを口にすることはなかった。

だから俺は彼の乗ってきた大きなバイクの後ろに乗る、以外の選択肢を見つけられなかった。

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