007 SKYFALL
タナー×マロリー
MI6のトップの交代はこれまでのそれと同じように、滞りなく行われたかのように見えた。少なくとも、対外的にはそうでなければいけなかったのだが、今のところ政府も議会もマスコミも比較的好意を持って受け止めてくれているようだ。
それが先代Mへ服喪の現れだったとしても、幕僚主任であるビル・タナーにとっては彼女の死を幾分引きずっているところもあり、それに加えてとてつもない事務作業の量、対外交渉の進捗状況確認、会議への出席などなど、落ち着く暇もないのだ、厄介事は少ないに限る。
それでなくとも。
「……あー、Sir?私の顔に何か……ついてますかね……?」
新しくM、と呼ばれるようになった元情報国防委員長(かつ、元陸軍中佐)ギャレス・マロリーに同行し、サポートするという最大かつ最も重要な仕事がみっちりと詰まっているのだ。彼が執務室に入って一人になる必要がある時だけなのだ、タナ-が他の仕事に手をつけられるのは。
いくら元エリート軍人で数々の武勇伝を持っていたとしても、諜報局の仕事は門外漢だ。前Mも情報国防委員会に向けては「きれいな上澄み」をすくって寄越していたし、今後マロリーもそのようにしなければならないのだ。
そういう意味で、00ナンバーを持つ英国諜報部が精鋭スパイ、ジェームズ・ボンドほどではないにしても、そこそこの古株になりつつあるタナーは腕の上げ下げから書類の読み方に至るまで、つきっきりで補佐する必要があった。
しかし、ぼやくことも、怒りを露わにすることも、時には喜びなどもそれなりに感情の起伏の大きかったマダムと違い、マロリーはほぼ表情も変えず、ペールブルーの瞳をじっと会話の相手に見据え、さほど抑揚もなく話す。まばたきもほとんどしない。
口数はもさほど多くない。だから、正直なところタナーには彼のことがよく分からず、言わせてもらえば(もちろん内心で、だが)こちらの言うことがわかっているのか、いないのか、それすらもいまいち把握できていない状態だった。
物わかりが悪くないってことがわかったんだから、いいじゃない。
そんな風に眠い目をこすりながらQは言うのだけれど、タナーとしては引き継ぎを滞りなくやり遂げた「幕僚主任」でいたいのだ。
内勤には内勤の矜持というものがある、とえらそうに胸を張ってみたいとこだが、目下のところタナーは書類を抱えて、移動中の時間も惜しんで目を通しているようなせわしい時間を過ごしていた。
お願いだから邪魔をしないでくれ、という気持ちを隠しながら視線を書類の方へ集中させたまま、少しばかり上擦った声で尋ねた。
「寝不足かと思ってね」
やはり、淡々とした声が肌を撫でるようでタナーはすぐに居心地悪さを感じ、新調したジャガーのSUV(イメージチェンジの考えも、大仰なデザインを採用した)の後部座席、つまりマロリーのすぐ隣で座り直した。
前のMはタナーの日常を気にしたことはなかった。咳でもしていれば風邪なんか引いている場合ではない、と叱咤したがそれぐらいのことだ。しかし、このマロリーはことあるごとに、全うな職務の話の合間に、タナー個人について、質問をしたり、意味ありげな視線を送ってくるのだ。
そういう風にされると、タナーの方も気になってしまい、ちらちらと相手の様子をうかがうようになったので、時折雰囲気はおかしなことになり、マネーペニーからは「セラピーに言ったら?」とからかわれることも多かった。
今回も気のせいではなかったか、とタナーはわざとらしい咳払いをしてやりすごそうとしたが、視線がまるでこちらから外れないのだ。
あー……。
と、これは、嫌な、予感がすると手にしていた書類から目を離し、マロリーの方へと顔を向けた。泰然と車のシートに体を預けているマロリーだったが、今日はまた特別、妙な雰囲気を醸し出している。
気がした。
タナーは運転席を気にしながら声を落とし、尋ねる。
「007から何か、聞きましたか?」
彼とは、古い友人だ。
そして、白状するなら、体の関係を持ったことがある。しかし、それはあくまで友情の延長のフィジカルな、そう、スポーツ、トレーニングと一緒だ!色々あって、そういうことになることもあった、というだけの話だ。
ほら、その。
彼には色々な問題があり、それを自分は十二分によく知っていたから都合が良かったのだ。
なんてことを上司に説明は出来ないし、まさか007も冴えない風体の事務官と寝ている、なんてことを報告するとは思えなかった。
しかし、しかしだ。
「朝まで部屋にいたと」
神様!とタナーは思わず声に出し、慌てて運転席と後部座席の間にスクリーンを下ろした。後で運転手にぼやかれるかもしれないが(彼は昔気質でモニターでの確認を嫌がる)仕方がない。こういう事態を死活問題、と言うのだから。
「テストではまったく問題ないんですが、ジェームズの酒量が、心配で。たまに見に行くんですよ、ごく、たまに」
ここは007、と呼ばなければならなかったところだったが、タナーは取り繕うとするあまり、つい、いつもの呼び名を口にしてしまった。早口になったのもマイナスだろう、これでは浮気の言い訳だ。
「なるほど」
だから、とっさに予防線を引いた。
あまり上手いやり方ではなかったけれど。
「それから、昨日は少しの思い出話を」
Mの話をしたのだ。それをマロリーに言うわけにはいかない、と思って隠していたのにどうしてボンドはあえて話したりしたのだろう。任務という任務がなく、暇なのかもしれないが、ただでさえ新しい上司との付き合い方を考えているところに、厄介ごとを持ち込むなんて酷いじゃないか、とこの場にいたら責め立てたことだろう。
「……」
ほら、空気が悪くなった。
タナーは取り繕うように笑ってみようとは思ったが、上手く行かず、すみません、と謝罪の言葉を選んでいた。
「謝ることはない。彼女の死は私もこたえているんだ」
守るつもりだった、と続けたマロリーにタナーははっとなったように顔をあげた。
そうだ、彼は凶弾から身を挺してマアムを守ってくれたではないか。タナーは今度はしっかりと、マロリーのペールブルーの瞳を多少の緊張を残しながら見つめ返した。にこ、と口元は笑みを作ってみたつもりだが、マロリーの表情は穏やかといえば、穏やか。
微笑んでいるのか、そうでないか、判断尽きかねる微表情をたたえたままだ。
ええと。
話は終わったのだろうか。寂しくなりましたね、とでも言えば良かったのだろうが、そういう機微のわかる出来る男なら、友人と寝たりはしないし、きちんと本命の恋人がいたりするものだ。忙しさを言い訳にしているが、そうでないことは自分が一番よくわかっている。
こういう微妙な雰囲気の時は天気の話でもすればいいのかな、と窓の外へ視線をちらりと動かし空模様を確認し、タナーは先ほど閉めたスクリーンを開けようとスイッチに手を伸ばした。
ただ黙ってウィーンと音を立てて上がるそこを見ているよりは、その間、雨がいつ降り出すのか話す方が建設的だろうと判断してのことだ。
しかし。
「え」
思わず、素の声が出た。
「……まだ、だ。タナー」
それも仕方のないことだ。指先は瞬時に弾かれ、痛みを感じるよりも先に驚愕に反応を抑え込まれる。
何が、起きたのか、そちらの方が問題だったのだ。
「え、ええ!?」
目の前には鏡面のように磨かれたマロリーの靴先がある。つまり、今、自分の手は上司によって蹴り飛ばされた、ということになる。実際、その通りなのだが、思考回路が上手くつながってくれなかった。パワーハラスメントだ!と騒ぎ立てるつもりは毛頭ないし、痛みもないが、ただただ単純に、驚いたのだ。
どういうシチュエーションなのか、わからなくて。
「……え、M……?」
ど、どういうことですか、サー!?
そんな風に声が裏返ってしまうのも無理はない。そしてさらに、タナーを混乱させたのがマロリーの反応だ。
今まで見たことがないぐらい、はっきりしたわかりやすい笑みがそこにはあった。目を細め、あごを上げ、睥睨するような視線をこちらに向けているのに、とてつもなく嬉しそうな、ご機嫌な表情に見えた。
あれ?
タナーは指先をもう一方の手でさするようにしながら、どうにか前のめりになっていた体をシートに戻す。落ち着け、落ち着けと自分の中に言い聞かせながらマロリーの微笑みをどうにかこうにか受け止める。
「二日間、袖を通しただけでよれてくるようなスーツを着るんじゃない」
続けられた言葉が話の流れに添っているのか、考えることを放棄したタナーは話題となった自分のスーツを見やりながら、首をかしげる。
「あ、いや、でも、これはそんなに悪くなかったと……」
マロリーの着こなしは他の誰とも似ていない。特に胸周りと腰から臀部にかけてのカーヴが、およそ元軍人とは思えなかった。ボンドや、たるみきった内勤の自分と比べるというわけではないが、ウェストぴったりでキープする、ああいう着こなしをするトラウザーを履いたことのない自分には珍しく思えたし、サスペンダーというアイテムも、確かに目を引くアイテムだった。
いや、だから、カーヴの話などではなくて。
「ん?」
「その……」
言い淀むタナーにいっそうマロリーは目を細める。少し弓なりになり、そこから覗く瞳には意地悪な光も宿る。言いたいことを我慢させるように見えるかな、なんて怖ろしい台詞を続けるものだから、タナーは書類を鞄に詰め込む、などという無駄な動作を間に挟んで落ち着きを取り戻す必要があった。
深呼吸。
それから愛想笑い、これが重要だ。
「ええと……、あまり、その、気取った服を着ていると同期に笑われるんですよ」
よし、言えた。量販店で買うわけではなかったが、ボンドが当たり前のように袖を通すブランドにも入ったことはないし、マロリーがひいきにしているようなサヴィルロウと仕立て屋とも縁がなかった。
ちょっとデパートで奮発して買った、程度のものだ。
「……同期?」
「え、ええ」
英国秘密情報部の幕僚主任、という地位にいるのはエリートの証拠だとよく言われる。しかし、学生時代をともに過ごした友人などからは、とてもそんな風には見えないと笑われた。何人かは「嘘をつくな」とまったく信じなかったぐらいだ。
同じ、情報部に入省した同期も建前としては敬語を使い、頭も下げるが目は「今度いつ飲みに行く?」と笑っているし、タナーも「残業の隙を見るさ」と答えていた。
「タナー、君は今、いくつなんだ?」
マロリーはそこで少し身を乗り出した。初めて彼の表情に困惑が見て取れた。
「え……、その、三十五歳になったばかりですけど?」
そして、次の瞬間、その目は大きく見開かれた。こんなに驚いたことはない、という顔にタナーはつい不満を顔に出してしまう。
「書類に書いてあります……」
子供のように唇をとがらせてしまい、慌てて引き結んだ。
マロリーは数度、まばたきをして(間近でじっくり見るのは初めてかも、と思うぐらいに珍しい)なるほど、なるほど、と二回頷いた。
そして、体ごとぐっと近くに、こちらへと向き直った。この顔の近さは、少し、まずい、とタナーが警戒したのは蹴り飛ばされたせいではなく。
マロリーが先ほど目をぐっと見開いた時、なんてきれいな色なのだろう、と改めてその瞳の色と大きさに見入ってしまったからだ。今更ながら相手は十五歳も上の組織のトップなのに、ずいぶんときれいな肌だな、なんてことも考えてしまったのもまずかった。
「君を頼ることは決めていたから、気にもとめていなかった」
それにこの声。抑揚がないと思っていたが、こんな風に近くで囁くように紡がれるといけない。
もしかして口説かれているのではないかと勘違いしてしまうぐらいには、甘く聞こえる。言外に見た目が結構老けているということを言われたのに、何も気にならないほどに。
まさか。
「……あ、その……どうもありがとうございます……」
まさか、まさか。
眼前、すぐそこに薄く微笑まれると、どうして良いかわからず、タナーはまた少しずつスクリーンのスイッチへと手を伸ばそうとするが、すぐに気付かれ、今度は指先をぎゅっと握られた。
元軍人の反射能力に太刀打ち出来るわけもなく、タナーはぐう、と小さく唸って、降参するしかなかった。
「なおさら良いスーツを仕立てなくては」
ええと、まだスーツの話?と戸惑いながら、タナーはイエス、イエスサーと頷く。何で今日に限って遠出なのだと忌々しくなったが、そのスケジュールを立てたのは自分だから、後で誰にも八つ当たりをすることは出来ない。
「もう少し体をしぼってからの話だが」
コロンの香りも、少し前までより甘くなっている気がしてきた。
「こ……これでも、前よりはましになったんです」
いや、気のせい、気のせいに決まっている!
「今でもきつそうだぞ?」
ここのあたりなど、特に。
頭の中で右往左往しているだろうことなどお見通し、と言わんばかりの余裕たっぷりのマロリーはあろうことか、あろうことか!
とんでもないところに、手を触れたのだ。
「!!!!!!」
悲鳴を上げなかったことを誰かに褒めてもらいたかった。上司の指先はスラックスの、端的に言えばそけい部のあたりを三度ほど往復し、それからファスナーの上から明らかにその下にあるものの形を確かめるように、一定以上の力をこめてさすったのだ。
「……ふっ」
あまりのことに言葉を失い、目を白黒させているタナーにマロリーは何でもないことのように続けた。会議の進捗状況を確認するのと、変わらぬ口調だったが、口元の笑みは色濃い。
「君の大好きなジェームズに聞いたんだよ」
大好きなんかじゃありません!
そりゃ、大切な友人ではありますけどね?
だから、そうじゃなくて!
「MI6で一番の大砲の在処をね?」
どうして自分の脳派は今すぐに止まってくれないのか。こんなに動揺して、心拍数も上がって、血圧もきっと乱高下しているだろう状況なのに、気を失ってしまえないのか、神様は案外残酷だ、と思わずにはいられなかった。
どうして、そんな無駄な報告をしたのだ、と友人を罵りたい気持ちで今はいっぱいだ。昨日、部屋中の酒をシンクに流したのがそんなに気に入らなかったのだろうか。買おうと思えばいつでも買えるのはわかっていたし、最近口をつけていなかったのもわかる。
ただ、彼には決別の儀式が必要で……。
いや、違う。今考えるのは、目の前の上司との関係についてだ。
「一番と言うならば、当然私の管轄下に置かねばならない、そう思わないか?」
確かに、評判に相応しいな。
マロリーは、今までに見せたことがない、好色さを滲ませた表情でタナーを見て、楽しみだ、と続けた。
「……うへえ」
思わず漏らした間抜けな相づちに、くつくつと笑って「本当に、大したものだな」ともう一度揶揄と期待を込めたやり方で「MI6で一番の大砲」に触れた。三十五歳だぞ、と思わずにらみつけてしまったが、それすらもスパイスなのか、すっかりご機嫌だ。
三十五歳の体は、刺激にまだまだ正直なのだからして、止めて欲しかったのだけれど、しばらくはこれで遊ぶつもりらしい。
何てことだ、スクリーンを開けさせないわけだ。
「よろしく頼むよ」
「ど、どっち、ですか?」
悲鳴のような泣き言、についにマロリーは声を立てて笑った。
「当然、両方だ」
満足そうな笑みは悪いものではないと思ったが、それとこれとは別の話だ。
ああ、だから、もう触らないでください!
「……いずれ、機会を改めて……」
苦渋に満ちた顔を作り、何とかプライドを保ちながらの言葉選びにマロリーはようやく手を放してくれた。中途半端に煽られたせいで、スラックスに大きな天幕、を張ることになってしまったのだけれど、しばらく頭を冷やせば大丈夫だろう。
到着予定時刻までまだしばらくある。
「君の手腕には期待しているよ?」
だから、どっちの!?
と、言いつのりたいところをぐっとこらえ、タナーは長い長いため息をついた。抗議のテキストをボンドに送り付けてやりたがったが、相変わらずマロリーの視線はじっとこちらを見つめたままなのだ。
「しゅ、趣味がずいぶんと……お悪いですね……」
凝視は彼の癖だと思っていたが、自分に向けられるそれは少し意味合いが違うものなのかもしれない、というこの見当は期待なのか、何なのか。
こほん、と何度目かの咳払いにマロリーは、曖昧かつ何かがしたたっているような、アルカイックスマイルを浮かべ、それほどでも、とうそぶいた。
タナーは、困りました、という顔を作り、鞄を自分の膝の上に乗せてこれ以上の「事故」が起きないようにするしかなかった。
ただ、それでもいつものように、ちら、ちら、と上司の方を目線で伺ってしまうのだけれど。
スクリーンを開けることは諦めた。
きれいな靴に蹴られるのも悪くない、などと思うようになっては大変だから。