Valentine SS 【Whitechapel】

2013 Valentine Request

警部補として与えられた個室から出るタイミングをジョー・チャンドラーはしばらく伺っていた。大きな事件はなく、定時もとうに過ぎていた。部下達もそわそわとし出す、そんな頃合いだ。
だけれど今日は特に、皆が浮き足だっている。
何があったか、と尋ねる前にチャンドラーはデスクの上にあるもののほとんどを引き出しの中に収め、塵一つ落ちていないことを確認すると、深呼吸をくり返す。少し喉が渇いているような気はするが、汗は出ていない。大丈夫だ、シャツの襟も一日着ていたけれど、角はまだくたびれていない。
「警部補、今日のご予定は?」
勇気を出して(部下が怖いというわけでは、けしてない)扉を開けたところで、陽気な女好き、マンセルに掴まってしまった。大きく腕を広げて歌うように尋ねた言葉はそれほど珍しいものではないが、チャンドラーに問うには少し珍しいものだった。
「何が……?」
チャンドラーは不意に髪が乱れてしまってはいないかが気になって指先で髪の流れを整え、瞬きを繰り返しながらあたりを見渡す。皆の視線が集まっていることに気づき、少しだけ指先が震えた。
「顔良し、育ち良しの警部補のことだから、素敵なレストランの予約もばっちりでしょ?」
「ちょっとマンセル、からかわないの」
ライリーは苦笑いしながらマンセルを肘で小突く。いつもは実用性重視の彼女の格好も、珍しく華やかだ。コートの色も、スカートの素材もそしてメイクもいつもとはだいぶ違う。
襟元にブローチまで、それに驚かされたチャンドラーは目を大きくした。
なるほど、わかった、そういうわけか。
ええと、とチャンドラーは軽く咳払いをして、無意識に助けを求めるようにあたりを見回してしまった。つまり、マイルズの姿を探したのだ。あれほど反りが合わないと思って胃を痛くするほどだったはずなのに、とおかしな気分にもなるが、今はその時ではなかった。少し、汗が額に滲んでいる気がする。
「警部補はおまえと違って身持ちが堅いんだ。愛のカードを名刺代わりに配ってるわけじゃないんだからな」
「ひでえな、マイルズ。俺はいつだってそのときは本気なの」
おっと、今日はダブルブッキングだったんだ、と懲りない男は悪びれもせずおどけて見せると駆け足で部屋を出ていった。
「私も、今日は子供をシッターに預けてデートなんです。お先に!」
やんちゃなマンセルのお守りもいらない、とありライリーもあわただしく帰って行く。
「なんだ、俺が出る幕でもなかったな」
「あ、いや、その、ありがとう。助かった」
今日がバレンタインデーだということぐらい、チャンドラーにも分かっていた。ハートマークを目にしない日などない、というほどあちこちに溢れ、カード売り場は赤とピンクのグラデーションに染まっていた。駅前や署の近くでも花屋の出店のバンがあちこちに止まっているのだ、気づかなかったらどうかしている。
だけれど、それでなぜ自分に、恋人同士が愛を語り合う日に、何かしらの予定が入っていると思われたのだろうか、ということが不思議でならなかった。
「あいつはあんたに連れ合いがいないっていうのをジョークだと思ってるんだな。照れ隠しだと思ってるんだろ」
「……そうか……」
マイルズは少し気落ちしたようなチャンドラーを見やって目を細める。
「ジュディがうちに連れてこいって言ってる、来るだろう?」
「……」
チャンドラーは即答出来ず、その場で口ごもってしまった。なぜならマイルズの妻、ジュディは高齢出産を控えた妊婦であり、二人はこれ以上ないおしどり夫婦であったし、今日はバレンタインデーなのだ。あからさまに部外者で、かつ、上司である自分がそこに呼ばれて行く理由がどこにも見当たらない。
マイルズの見当違いよりもおかしな話かもしれない。
しかし、なぜかいつもなら簡単に出てくる「断り文句」が思い浮かばない。
「うちのガキどもに『お片付け』の仕方を教えてやって欲しいんだと」
「……だけど……」
なおも口ごもるチャンドラーにマイルズは舌打ちをする。良いから黙ってついて来い、とでも言いたげな表情にチャンドラーは言い訳を必死に探した。
「ゴミを捨てないと……」
そうだ、今日も皆のデスクは散らかり放題だ、とチャンドラーが続けようとすると、不意に視界に入ってきた若手捜査官のケントが小さく口元だけで笑っていた。
「俺がやっておきますよ。たぶん、あなたが行かないと、彼が奥さんに怒られる」
「そうとも。俺の大切な日を台無しにする気か?」
ぴかぴかにしときます、と両手を挙げて珍しくおどけて見せるケントにチャンドラーはようやく表情を緩め、にっこりと微笑むことが出来た。自分のやり方が浸透しつつあるのも嬉しかったし、今までにないこの日が過ごせそうだ、ということにも少し愉快な期待を抱きはじめていたから。
「よし、決まりだ。行くぞ、警部補殿」
「ああ、すぐ行く。じゃあ、すまないがケント、頼んだぞ?」
「ええ、喜んで。」
「君も、終わったら、楽しんでくれ」
チャンドラーは精一杯、他の人達と同じような話題で気を利かせたつもりだったのだけれど、ケントはそれには答えず、黙ったまま微笑み、小さく頷いただけだった。
なあ、今のケントの様子。
おかしくなかったか?と、誰かに尋ねて見ようかと思ったが、せっかくの行為を台無しにしてしまうつもりは当然なかったので、少しの違和感は忘れてしまうことにした。
とりあえず、マイルズの奥方に何か贈り物を買って行かなければならないだろう。マイルズの顔を潰さないようにしなくては行けないし、喜んでもらわないといけない。
「来年は、おまえさんが真っ先にデートに出かけるようであって欲しいもんだけどね」
「そうありたいよ」
模範解答にマイルズはどうだか、と呆れたように肩をすくめた。チャンドラーも来年もお邪魔することになるかもしれないな、と内心では考えなら、大丈夫さ、と強がっておいた。
ピンクのハートのカードに、愛を綴れる日がもし来るのだとしたら、それは「普通の人」になれた時だろう。
机の上が多少散らかっていても、気にならない程度に。

***   ***   ***

はあ……。
重たいため息が誰もいないオフィスに響いた。
ケントはチャンドラーが毎日するように皆のデスクの上のゴミを片付けた後(食器も全部洗って)自席に戻ったものの、とてもすぐに帰る気になれなかったのだ。
鞄の中身をどうするのか、まだ決めかねていた。
「……上手く行くとは思っていなかったけどさ……。」
小さなカードと、きれいにラッピングされた手の平大の箱が一つ。じっと見つめていると膨れ面になってしまいそうなのを頭を振ってごまかすと、まずはカードを取り出した。

I hope you know
how much you mean and
how happy you always make me. K

このチームにイニシャルKは自分だけだ。メッセージも露骨な表現は避けたつもりだけれど、やはり意味を持っている。
どうしてほんの数時間前までこれを彼に渡すことが出来る、と思っていたのか自分でも不思議だ。潔癖症な警部補のことだ、誰からかわからないものをもらったところで、受け取らないだろう。下手をすれば鑑識に送られてバッカンに過去の類似事件を探させるかもしれない。

さらし者はごめんだ。

ケントは整った顔を苦さにゆがめてもう一度ため息をつき、椅子に座ったまま移動し、壁際においてあるシュレッダーにカードを滑らせていく。そう厚みもなかったカードはそう音も立てずに、紙吹雪ぐらい小さくなってしまった。
はあ……、もう一度ため息をつく。
それからしばらく考えこむようにしていたが、意を決したのか立ち上がり、鞄の中の箱を取り出した。ラッピングを勢いよくはがし、びりびりになった紙を破り捨てると、正方形で出来たガラスの箱が姿を現した。ケントは家宅捜索に使う手袋をして、そのガラスから一切の指紋を拭き取った。
中にはプリザーブド加工したバラ。他に何の装飾もなく、何かのメッセージプレートがあるわけでもない。ただこれなら枯れて醜くなることもないし、落ちた花びらや花粉が彼のデスクを汚すこともない、そう思っただけだ。
ケントは他に誰もいないことを確認するとゆっくりとチャンドラーの個室へと向かった。
「……これぐらい、許してもらいたいよ……」
そしてほとんど何も置いていないデスクの中央に、そのガラスの箱をそっと置いた。明日、すぐにゴミ箱の中に放り込まれることは想定しているし、大事にされそうなら捜査を担当させてくれと頼むつもりだ。
ただ、昨日の夜、誰かを見たかと問われたらこう答えるだろう。

いいえ、誰も見てません。
この部屋にいたのは自分だけです。

そう聞いて彼が卒倒してしまうのか、自分がここから追い出されてしまうのか、それはわからなかったけれど、ケントはそうすることに決めたのだ。

———————————————————————-

というわけで、初ホワイトチャペルでした!
S4次第でケント君がどうなるか心配で仕方がありません。
いつまでチャンドラーのDTは守られるのか、気になります。
(シャーロックよりDT臭が本気)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です