【TTSS ビル×ジム】
130112 発行 無料配布より再録
油彩を嗜む人間からする特有のにおいがビル・ヘイドンから漂ってくることはまずなかった。それは学生の頃から変わらず、ジム・プリドーが抱くビルへ抱く疑問の筆頭だった。
いや、筆頭というよりも唯一と言った方がいいだろう。
出会ったその日、やあ、だとか、ハローだとか、そんな一言を交わしただけの相手に、ジムは他人からすればどうかしていると思うほどの信頼を寄せていた。
彼は、ジムの目には映らないものを見ていて、ジムの耳には聞こえない音を聞いていた。
それを皆まで話してくれる人間でもなかったし、こちらも詳細な説明を求めたことはない。それでも、彼にはどうしても自然な笑みを向けてしまうのだ。
何十周とグラウンドを走った後、汗だくになったジムをビルはアンダルシアン・ホースになぞらえた。
元々誰ともさほど会話を交わす性質ではなかったジムの数少ない友人達(ほとんどはクリケットのチームメイトだ)はその物言いに憤ったものだが、そのこともまるで気にはならなかった。
ジムがビルと同じサーカスと呼ばれる組織にリクルートされることのきっかけとなった、どの国籍の欧州人にも見える顔立ちについて、ジムは十代半ばから自覚していたし、典型的な英国人と筋肉の付き方も少しばかり違っていた。
単純にそのあたりのことをビルは言っているのだろう、そう思ったのだ。
「馬鹿を言うね」
しかし、しばらくの後、二人きりで語らう時間にそのことを聞いてみたジムにビルは呆れたような表情を見せた。眉をあげ、口元を少しゆがめるその所作にジムは自分がずいぶんと低脳になったのかと思わされたのだけれど、続けられたビルの言葉は考えもしないものだった。
「あの馬は、美しい」
それだけのことだ。
「……君は、愉快だな……」
多少なりとも面食らったジムだったが、どうにかそれだけを返すことができた。それから、何か会話を続けようとしたけれど、うまく行かず、結局脈絡もなく微笑んでしまったのだ。
まるで、こんな嬉しく思うことはない、とでも言うように。
「今なら、別のものに例えるだろうが」
ビルはジムのその笑顔をしばし見つめた後、こう続けた。
「それは、私の中に留めておこう」
目を細め、慈しむような表情を見せたのは一瞬、すぐに彼はいつものビル・ヘイドン、美しく、誰の心もすぐに虜にしてしまう、と妖術師のようにも揶揄される、仮面をつけてしまった。
彼が仮面をつけて日々を過ごしていることに気づいた人間はあと幾人いるのか知らないが、彼には愛を語らう相手が幾人もいて、その手段に身体だけを用いる相手もいくらもいた。彼等の前では、どのような顔をしているのだろうな、とぼんやりと考えることはあったが、それだけのことだった。
どのみちそれは学生時代から変わらぬことで、今も間違いなく続いている。だからジムはビル本人にその話題を振ったこともなければ、あの時彼が何を胸の内に留めたかも、尋ねずじまいだった。
そう、テレピン油のにおいがしないのはなぜか、ということも結局十数年の月日が経っても聞けていない。
しかし二人の間にはそんなことすら些末なことだと捨て置ける、特別な関係があると、少なくともジムは信じていたのだろう。
だから、何ヶ月ぶりに、ジムの自宅(と、言ってもサーカスが支度したセーフハウスで、安ホテルよりも殺風景な場所だ)に彼がやってきたビルを迎え入れる段になっても、自然に頬が緩み、にっこりと笑ってしまうのだ。
やあ、ビル。
久しぶり、そんな言葉もいらない。紅茶を入れようとキッチンに向かい、それを当然のようにソファに座って待つ男がその空間にいる、だけのことだ。
サーカスに入り、ジムは実働部隊としてヨーロッパ各国を渡り歩いていた。膂力を買われ、ある程度以上の荒っぽい仕事をいくつも請け負っていた。
そこで出会った幾人の人間が(もちろんオックスフォード時代を知らない、サーカスの外の知人達だ。それに半分以上はもう墓の中だ)、自分とビルのこんな関係を見抜けるだろうか。
口も利かない性質同士に見えるだろうし、会話が成立しているようにも聞こえないだろう。
ただ、ジムが屈託なく笑いかけるのはビルに対してだけだったし(彼自身、理由はわからないままだが)、ジムが他人に対して「半身」と称したのはビルただ一人のことだ。
美辞麗句として使うのならば、いくらも同じように他人を推挙出来ただろう。
しかし、今日はほんの少し、様子がおかしいように見えた。仕草や表情には表れてはいないが、直感的にそう感じたジムはその隣に拳二つほどの距離を置いて腰掛けた。どうやら紅茶にも手をつけていないようだ。
彼は対面した状態で、本音をこぼすことをまずしない男だったから。それに、彼はジムを対面に置くこと自体、好まなかった。
これもまた声に出して忠告されたわけではない。やはり直感的にそう感じたジムが、いつの頃から彼の隣に座るようになったのだ。
歩く時は半歩、右後ろを歩く。
ツイードのジャケットの、スウェードの肘当てが一定の間隔で動く様を見つめながら、何時間でも歩き続けられた。実際はビルが耐えられないとばかりにすぐにタクシーを呼びつけたけれど。
さて、今日はどうしたと言うのだろう。
カップに触れてすらもらえず、紅茶はすっかり冷めてしまった。時計の長針はぐるりと一周したところだろう。ジムは入れ替えた方がいいのだろうかとしばらく悩み、腰を浮かせかけたところだった。
ビルがようやく口を開いた。
「君はいつ結婚するんだ?」
まさか。
ジムは思わず目を大きく見開いたが、どこかふてくされたようにソファに背を預けていたビルの目には入っていないだろう。
しかし、驚かれても仕方がない言葉を彼は口にしたのだから、様子を伺い見ても良いと思った。まさか、彼の口から「結婚」などという因習について語られるとは思いも寄らなかった。
愛人だか恋人だかのうちの一人に子供でも出来たのだろうか?そして結婚を迫られている、と。
考えられないことではない。ジムは一つだけ頷いて、それからすぐ、まさかな、と内心でいらえを返す。仮にそんなことが起きて、ビルが動揺するとは思えなかったのだ。
人非人のことを紹介するようだったが、彼はその類いのことを遊戯か、もしくは些末事か、手段として利用しているにすぎないと思っていたからだ。
そう思いたかったのではないか、と問われたらジムは真顔で首をかしげるぐらいのことはするだろうが、答えることはないと思った。
持論が揺らぐわけではない。ジムはただビルのことを信じている、それだけのことだったから。それが真実だとか、騙されているだとか、それこそ些末事だと思っている。
だから、少しばかり今は困惑していると言えるだろう。すぐに答えは見つからない。不意にビルの前に薄く靄がかかってしまったような、そんな感覚に無意識にジムは眉を寄せた。
「ジム」
ビルは少し苛立ったように返事を催促する。それこそ、彼にはあまり見られないことで、ジムは動揺を悟られないように笑ってみようと思ったが、うまく行かなかった。
ビルの前での笑顔は、嘘があってはいけない。
欠片でも嘘が入ってしまえば、彼の前ではとても笑うことなどできないのだ。
そうだな……。
仕方なしにジムは大きく深呼吸をして、それから少しいつもよりゆっくり、話し出した。
「……考えたこともなかった」
驚いたということはこれで伝わったろうか?しかし、ビルは面白くなさそうな顔のまま、先を促そうともしない。
「それこそ、順番なら君が先だ」
なぜそんなことを言ったのか、理由は彼が答えてくれた。
「私はいつでも誰とでもできるからな」
さも、当然と言ったように。これはいつもの彼のようで、ジムは少しの安堵を覚えた。
「そうだろう?」
だからもうそんなことを聞いてどうする、と話題を変えてしまいたかったのだが、ビルの追求は終わらなかった。それどころか、今度は顔をこちらの方へ向けたのだ。けして思慮深くは見せないで、その実、頭の中では様々なことを考えている、それがいつものビルだ。
しかし、今日の瞳に宿るのは何かしらの、焦り、に思えた。
どうやら仮面をどこかに置き忘れてしまったのだろう。それは少しあからさまに見える。
「いつ頃を考えている?どんな人間と?どこで生活するつもりだ?」
「矢継ぎ早だ」
彼に何のきっかけが訪れたのかは知らないが、その質問に答えない限りに彼に近い将来の安穏が訪れないのは確からしい。
「私は知りたいことはみな知っておきたいんだ、知っているだろう?」
ああ、よく知っているよ。
知らないことは、君がテレピン油のにおいをさせないこと、それだけなのだから。
「そうだな……おそらくだが……」
ジムはぽつりと呟くと、ようやく「ふむ」と相づちが返ってきた。あまりに二人の間の会話は特殊なので忘れがちだが、これが本来の会話、というものなのだ。
「君がこの世界からいなくなってしまったら、……考えるかもしれない」
この世界が生死を意味するものなのか、サーカスという組織を意味するものなのか、それともこの関係そのもののことを言うのか、ジムは定めるつもりはなかった。
「良い答えだ」
ビルもそれを問いただすつもりはないのだろう、そんな風に完結に答え、こちらから視線を外した。
「ただし、本心なら」
ジムはその言い分に(やはり人が聞けば立腹するような内容なのだろうけれど)、思わず顔をほころばせてしまった。一体何を言い出すかと思えば、と小突いてしまいたくなる。
笑みの気配に気づいたのだろう、ビルがいぶかしげにこちらを振り向いた。
「それも、君が決めることだと、俺は考えているよ」
「……何?」
二人の世界は一つなのだ、完璧なように見えるビルに不確かな部分があり、それを埋める存在が自分だと言うのなら、そうなのだ。
だから、ビルが「嘘」だと言うなら、それは「嘘」なのだ。そんな単純なロジックがわからなくなるとは、余程、嫌なことでもあったのだろう。
ジムはそのロジックが歪んでいるものと気づかないまま、笑みを深くし、じっとビルを見つめた。
数ヶ月笑っていないと、頬が強ばるものかと思っていたけれど、彼の前なら、やはり、こんな風に笑える。それが心地よかったのだけれど、ビルには伝わっているだろうか?
「なるほどな……」
うん、うん、とビルはようやく納得が行ったのか、二度深く頷くと、紅茶を入れ直してくれ、とソーサーを指先で行儀悪くはじいた。
ジムは当然のように立ち上がり、キャビネットを開く。そしてある一つのことに気がついた。
「……ああ、すまない、ビル。この店の茶葉は君、嫌いだったな」
備え付けだったから、当然のように使ったのだけれど、もしかして、おかしなことを言い出したのはこれが理由だったのかもしれない。
結婚をして味の好みが変わる、という話は世間話としてよく聞くことだ。
「すぐに買ってくる、もう少し待っててくれ」
ビルは眉をひょい、とあげて了解の意を示した。そして、ようやく気がついたのかとでも言うように、軽くこちらを睨んでみせた。
ジムはそんなビルの様子についにこらえきれず、声を立てて笑った。目尻の皺を寄せ、腕を抱え込むような格好で笑うジムにビルは、言った。
正確には、言おうとした、のだ。
ビルは口を開いただけで、言葉は発せられなかった。だからもちろん、ジムにはその言葉は届かなかった。
驚かされたのはこちらの方だ。
私のことを、君が忘れるなんて、
世界の終わりだと思った……!