120819 発行 『Knocker’s #9 Re-MIX』 より 再録
旅行には多少のトラブルはつきものだ。
トム・ヒドルストンはその常識に対して異論を唱えるつもりもないし、十分とは言えないかもしれないが、それなりの被害にもあったことがある。幸い命にかかわるような大トラブルには縁がなかった。だから、ほとんどの旅行は楽しい思い出であり、写真や手帳に記したメモによって、いつでも振り返ることが出来る。
しかし、撮影中となると話は別だ。
「……どうしても、難しいのかな?どんな部屋でもいいんですけど……。」
ここはティファナ。メキシコとアメリカの国境の町で、今現在撮影中の大作のロケ地でもある。LAのスタジオとここを行ったり来たりをくり返していたが、この二、三日はこのホテルでの待機を指示されている。
トムの立場は、駆け出しとは言わないが、アメリカ資本のメジャータイトルへの出演というカテゴリで考えれば、ラッキーボーイ、と言えるぐらいの存在だ。監督であるケネス・ブラナーとの共演経験(及び出身演劇学校が同じ)というのがなければ、この役がもらえたか、と意地悪く聞かれた時のための切り返しを用意しておいたぐらいには幸運なんだと思っている。
しかし、今は思いがけないアンラッキーにトムは困り果てていた。
「申し訳ございません。ここだけの話、ダブルブッキングも含め、お部屋はすべて埋まっておりまして……。」
まさか、撮影から戻ったら自分にあてがわれた部屋が水浸しになっているなんて。上の階に泊まっている客の不注意だとかホテルのフロントスタッフは説明してくれたし、他のホテルへとお移りいただけるよう手続きをします、とは言ってくれたけれど、撮影中に皆と違うホテルに泊まるという行為は何となく避けておきたかった。連絡不行き届きも心配だし、余計な労力がスタッフにかかってしまうことは、どうにもトムの納得出来ることではなかったのだ。
参ったね、と眉を寄せてみても解決することではないのは、理解できている。トレーラーハウスは市街地には置いておけないので、実際撮影が行われる砂漠の方で待機しているはずなので、使えない。
とりあえずディレクターかコーディネーターに一言相談をして指示を仰ごう、そう思ってフロントを離れようとした時だ。
「トム!。」
もう一人のラッキーボーイ。
タイトルロールを手にしたのが、オーストラリア出身のクリス・ヘムズワースだ。彼は劇中と変わらずにっこりと幸せの笑顔をこちらに向けて手を振っている。
「やあ、クリス。買い出し?」
彼の手には近くにあるらしい(トムはまだ行ったことはない)マーケットの紙袋が抱えられている。なかにはフルーツやお菓子の類いが詰まっていそうだ。コーディネーターやマネージャーに見つからないうちに部屋に持って帰ったほうがいいな、と思いながらトムは彼の方へと向かった。
明るいブロンドに、きれいに揃った歯、たくましい上半身と、きゅっと引き締まった腰回り、まるで男性版ピンナップスターそのものの容姿と、無邪気さを兼ね備えた彼についてのトムの印象と言えば、陳腐な表現で言えば「太陽」のようだ、というものだったのだけれど、最近はそれにいくつか、別の要素を含めずにはいられなくなっていた。
男兄弟への憧れから、弟のように思えるかと思ったけれど役で真逆の設定を演じていることもあり、うまく行かなかった。
親友というポジションもまだ撮影時間を供に過ごしただけと考えると、説得力に欠けるし、三十歳前後の年頃では、すでにそういう存在をどこかで見付けているというのが妥当な線だ。
ただ一つ言えることは、だ。
「ああ、そうだ。トムはどうしたんだ?こんなところで。」
「うん、少し困ったことになったんだけど、もう大丈夫。」
彼の前では格好の悪いところを見せたくないという気持ちが大きくて、
「そうは見えなかったけどな。」
出来れば、何か別の形というか名前を持つ関係を築けたら、まるで夢のようなことを考えているということぐらいだ。
ここ最近は、ずっとそうなのだけれど、実際に何かをしようと思ったことはない。むしろ、タブーなのだと言い聞かせているくらいだ。
礼儀として、本音を隠すことぐらいわけないことなのだから。
「はは。」
ええと、困ったな。トムは撮影用に染めた黒髪を手櫛でとかすようにしてから、小さく笑った。こんな時、どういう風に切り返せばいいのか、分からなくなってしまっている。大らかであまり細かいことに頓着しないように見えたが、意外にも観察眼は鋭い。
「俺に言えないことか?」
きれいに生え揃った睫がしぱしぱ瞬く。悲しそうな顔で首をかしげられると、トムの胸には矢が突き立てられたような痛みが走る。駄目だ、彼にこんな顔をさせては駄目だ、と気ばかりが焦る。
「いや、そうじゃないんだけど……。」
ええとね。
実は……。
*** *** ***
結局、強引に押し切られる形でトムは自分の部屋がどのような状態になっているか、今の状況はどんなものか、ということをクリスに説明することになった。そう時間のかかることではなかったし、クリスの表情を明るくさせるためには必要な工程だったのだけれど、やはり早まったとしか思えない。
色々と問題が、出てくることがわかっていたから避けていたのに、と恨みがましい気持ちになるのもトム一人が悪いことではないと思うのだ。
しかし、正直、本当に困った。
「どんなことかと思ったら!」
はははは!と、クリスは声をあげて大笑いしている。もしかしたら深刻な話かも、と気を利かせたクリスの言うとおり(腕を強く引かれてしまっただけなのだけれど)、彼の部屋でトムは話をした。
心の中で自分の運の悪さを呪いながら。
「この部屋、見ての通りのツインだ。片付けが済むまで一緒でいいじゃないか。」
これ、これこそトムの恐れていたというか避けていたことなのだ。格好悪いところを見せたくないというのがまず第一にあったけれど、こちらの方が事態は深刻だった。
「ベ……ベッドが一つしかないじゃないか。」
トムは貼り付いたような笑顔のまま、それだけをどうにか抗議として提案した。6.1フィート半ある自分はもちろん、クリスは主演俳優であるし、6.3フィートとさらに背は高い。狭いところで眠って疲れさせてはいけないし、ええと、それから……。
普段ならば呼吸をするように最もらしいことを口に出来るのに、最近、どうにもクリスの前ではそれがうまく行かない。彼が機嫌良く話しているところで口を挟むことなく終わりまでただただうなずきながら聞いてみたいと思うし、プールで一泳ぎしようと言われればついて行きたいと思う。大口を開けてよく笑う彼を頬杖をついてぼんやりずっと眺めていたいとかも、考えた。
というか、今のところ、ずっとそんなことを続けていると言っていい。
つまり、は、そういうことなのだ。
「あ、やっぱり気にするか?」
何もしないぞ、と両手をおどけてあげてみせたクリスにトムは引きつった笑みを返すしかなかった。まったく、スマイルだけが取り柄だと思っていたのに、それも返上しなくてはいけない。
「い、いや、そういうわけじゃないんだ。ええと、クリス?」
冷や汗が出るのは取り繕ってきたあれこれの帳尻が合わなくなってきたからだ。
「ん?どうした、顔色悪いぞ?」
無邪気過ぎるのも何らかのペナルティを負うべきだ!と言い放ってしまいたい気持ちをぐっと堪えて、トムはどうにか理性を保ちながら続けた。
「僕は、その……あまり、ええと……。その、ね?僕がというか……。」
端的に言えば、ええと。
「君に迷惑をかけてしまうと思うんだ、クリス。」
心配そうな顔ですぐ近くから顔を覗きこまれているこの現実にトムはついに耐え兼ねて勢いよく立ち上がった。
「つまり、ね。」
もはやこれは舞台だ、とトムは自分を奮い立たせて言い切ってしまうことにする。もちろんそれが正しいわけがない、撮影は明日も明後日もそれから長いスパンでの続編プロジェクトも考えると、降板させられない限りは彼と何度も何度も顔を合わすことになるのだから、不愉快な思いをさせたくはなかった。
だけれど、とても冷静ではいられなかったのだ。
「君との距離が近いと、耐えられなくなってしまうんだ。」
見開かれた目、きれいな青い瞳は海の色。
太陽の下でキラキラと輝いているのが一番お似合いな、ピンナップスター。すまない、せっかくのオフタイムを台無しにしてしまって。
「その、こんな細腕で何を言うんだと思われるかもしれないけれど。」
ああ、これでおしまいだ。心密かに思っていることも許されなくなってしまった。
「抱きしめたくなる。君が、愛しいという心一つで。」
彼がハラスメントを訴えれば降板もあり得る。
「……ええと、トム?」
しかし、クリスの反応は少しばかりトムの予想とは違っていた。気持ちが悪いと罵るほど狭量な男ではないのはわかっていたけれど、すぐに距離を取られると思ったのだ。たとえば、すっかりくつろいでいるソファから逃げ出すとか、そういうことぐらいは。
だけれど、クリスはそうせずに反対側に首を傾けて、こちらの名前を呼んだだけだった。
「ああ、……本気なんだけど、その、伝わったよね?」
さすがに僕が、君を、とジェスチャーをする羽目になるとはコメディの脚本でもない限り思いつかなかったけれど、どうやらこれが現実のようなのだ。
「ああ、それはまあ、わかった。」
「だから、別のホテルを探してもらうよ。ありがとう、親切にしてくれて……。」
ごめん。
本当に、ごめん。
トムは謝罪をくり返し、不思議顔のままのクリスをそのままに遁走してしまうことにしたのだけれど。
「……クリス?」
「ん?」
それがどうやら、出来ないようなのだ。
「その、手を……。」
なぜなら、クリスの手がこちらの手首をしっかりと握っていたからだ。
「俺がかまわないと言っても信じないんだろうけど。」
少しはにかんだような笑みを浮かべ、片目をつむって見せたその行為に何の意味があるのか、わからないととぼけるには魅力的過ぎて、ごくりとトムは喉を鳴らしてしまう。
「はは!そんな下品な顔も出来るんだな、知らなかった。」
よいしょ、と声をかけてこちらの腕を掴んだまま立ち上がったクリスにトムは何を言えばいいのかわからず、完全に負けを認めることにした。
下品な顔、なんて初めて言われたよ。
ささやかな抵抗はそれぐらいだ。
それからクリスは手を放し、トムの正面に立ちまっすぐにこちらを見た。ああ、このまっすぐさをずっと傍にいて守ってあげたいなあ、と心から思えるのだ。それが騎士道精神なのか、無垢信仰なのか決めかねているけれど。
「トムは誰にでも優しいし、親切だ。」
「それはどうだか、自分ではあまりよくわからないけど……。」
確かに他人からそう評されることは少なくない。
「だけど。」
「う、うん。」
ほら、どうぞ?というように、クリスは両腕を広げた。
「俺には一番優しい。」
一瞬、息の根を止められたかと思った。トムは言葉を完全に失った。気の利いた引用も、さっき以上にあからさまな愛を紡ぐ言葉も思いつかない。
ただ、目の前にはクリスの完璧なスマイルがあって、
「それぐらいわかってたさ。」
最高の夢物語が現実の出来事になったという福音が鳴り響いたのだ。
「……ああ、なんてことだ……。」
引用禁止。
腕いっぱいに彼の体を抱きしめて、息を吸い込んだトムの耳元で笑い声で囁かれるクリスの声。これが夢なら、あと、二十四時間、ええと、四十八時間。
そうだな、うーん。
あと、三年ほど覚めないでください。
「君が愛しくて、たまらないんだ。」
だろうな。
ははは、と快活に笑いながらもクリスはきちんと腕を背中に回し、抱きしめ返してくれた。
「キスもいるか?」
なんて、爆弾も落としはしたが。
「食事の後に是非。」
何とか応酬した言葉も、了解!と返されてはたまらない。
ああ、幸せで、死んでしまいそうだ。
本当に、本当に、夢なら覚めないで!
神様、これが僕の言葉です!