RPS-AU Viggo×Sean
すれ違う人々の舌打ちや、非難の眼差し。面白がってついて来ようとする子供たち、無責任に明るい若者の歓声、すべてを振り切って一人の男が走っていた。
後ろにぐんぐんと飛ばされていく景色も男の目には入っていない。ただひたすら前に、前に、足を運んでいくだけだ。汗が目に入るのが痛くて時折強く頭を振ることもあったが、彼はそれで気を散らせてしまうことはなかった。
どこへ行くの?と、見知らぬ誰かの声がかけられたが男には答えることが出来ない。
行き先が決まっていないからだ。
ただ、ここではないどこかへ行きたい、地球が丸くなければいいと、とにかく願うばかりだ。持ち物は財布とパスポートだけ、もともとセルフォンは持っていない。
もう、終わりにしよう。
今日こそ、終わりにしよう。
そう思って、足の感覚がなくなりそうなくらいの勢いで走り続けている。時計もないので、どれくらいの時間が経っているのか、どれくらいの距離になったのかはさっぱりわからない。
ただ、この異常な心臓付近の痛みからすれば、相当になっていると思うのだ。しかし、四十代も半ばの年齢と長距離走の経験もあまりない、ということを考えていれば、三時間走り続けたとしても、二十キロかそこらの距離にしかならないのだろう。
男は内心で何度も自分を罵る。
そんなんじゃ駄目だ。
もっと、遠くに、遠くに行かなければ。
だから、とにかく前へ走り続けた。朝一番の太陽はいつの間にか空高くなっていて、いずれ傾くだろう。少しずつ、歩いたり、しかしまた気合いを入れ直して走り出したりを繰り返せば、夜になり、また朝が来るかもしれない。
そうして、遠くに逃げるのだ。
出来れば知り合いもいない、見たこともない知らない街に行きたい。
「……畜生……っ!」
それからどれくらいの時間、走り続けたことだろう。三つくらいの小さな街は越えたはずだ。大きな鉄道駅がある街まではあと一山越えればたどりつくはずだ。
空腹もある。
目眩もしてきた。
しかし、男の足がゆっくりと、遅くなっていったのは、疲れのせいではなかった。
目隠しをして、走るべきだったか、と思っても、もう遅い。後悔とは間に合わないから、後悔と言うのだ。
「……どうして……?」
まっすぐ、どこまでも先に続く、地平線の先に一台の車が見えた。車など滅多に通らない田舎道だというのに。ぽつん、と初めからそこに当たり前のように停められていたかのように、そこにあったのはミントグリーンの丸みを帯びたフォルムのフランス車。
シートはオフホワイトとチャコールグレーのツートーン。
すぐにエンジンが止まってしまう、古い、古い、見た目がかわいいだけの車。
「……神様……!」
男はその車を毎朝ぴかぴかに磨いていたが、キーを渡してもらったことはなかった。だから、ひたすらに男は走って逃げるしかなかったのだ。その車の運転席に、涼しい目をして乗っているだろう『友人』からとにかく遠くへ離れるために。
「どうして……追いかけてくるんだ………。」
男は友人と二人で、町はずれの丘に建つ小さな家に住んでいた。そこには小さな庭がついていて、ガレージは一つ。ラベンダーが家の周りをぐるりと囲み、家庭的な庭にはミニバラとスミレ、色々なハーブや小さな野菜などが植えられていた。それに加えて、クリーム色の壁にはテラコッタの鉢植えがあしらってあった。
まるでおとぎ話のようなカントリーハウス。
幸せに満ちたスイートホーム。
誰が見てもそう見えた。
「……嫌だ、もう……嫌なんだ……!」
ああ、畜生。
男は頭を抱えこんで、そのまま倒れ込んでしまいたかった。これ以上足を前に進めて、友人、に近づくのが怖い。
「……。」
車はそれ以上近づいてくることはなかった。男は緩く頭を振って、だらだらと流れ落ちてくる汗を何度も手の甲と手首で拭う。涙は混ざっていないはずだ。いつものように朝食の支度をした、洗濯物も外に張ったロープに全部干してきた。
一週間分の食料も買い込んでおいた。
その後、友人がどうやって過ごすのか、それも考えたくなくて逃げ出した。
「………ショーン………。」
男はうめき声で友人の名を呼んだ。彼がゆっくり、ゆっくり、歩きながらこちらに近づいてくるのに気が付いたからだ。彼の歩みは本当にゆっくりで、その足音は独特だ。目を閉じていても、俯いていても彼が近づいているのだとわかるのは、そのせいだ。彼は三本の足で歩く。
1ステップ目は左手で持ったチタンの杖。
2ステップ目は右足。
3ステップ目で両足を揃える。それの繰り返しだった。
「……来るな……!」
もう少しのところでヴィゴは吠えるような声で、友人を拒絶した。どうして、歩いてきたのだ。すぐ側まで車を寄せることも出来るのに、どうしてわざと動かすことの難しい足を見せつけるようにして、歩いて近づいてくるのだ。
男は顔をあげることのないまま続ける。
「俺は、もう……これ以上……あんたの側にはいれない!」
それはまるで泣いているような声だった。男は自分で自分の声を恥じるように、ぐっと奥歯を噛みしめる。
「……そうみたいだな。」
ショーンという名の男の友人、は小さく笑ったようだった。とても逃亡者を追いかけてきた追っ手、とは思えない穏やかな声が続き、男は喉の奥で鈍いうなり声を上げる。
「……ヴィゴ?」
男の名はヴィゴ、と言った。何度となく呼び合ったお互いの名前だったが、男は今、その呼び掛けを聞きたくなかった。一生、その声を聞きたくない、そう思って家を飛び出したのだ。
「あんたは……一度として俺を責めなかった……。あんたの世話を焼いていたのは、俺の勝手だ……。」
あるところに、ある警官がいた。
銃の名手と呼ばれ、勲章をいくつももらい、ヒーローだと言われたこともあった。
しかし、たった一度だけ、誤射をしたことがある。
「元々、草木をいじって過ごしていただけさ。暮らし向きはかわらないよ。」
凶悪な連続殺人犯を密かに追いつめようとしていた。交通封鎖を敷かなかったのは上司の命令だった。混乱を招いてしまうことより、犯人に気配を悟られることを恐れたのだ。そういうやり方があるのはわかっているけれど、今となっては後悔だけが残る作戦、だった。
あるところに、ある通りすがりの男がいた。
ごく普通のツーリストだったが、彼はとてつもなく運が悪かった。
手配書にあった犯人とあまりにも似ている服を着ていて、髪の色も同じだった。後になってわかったが、日差しに弱い目だからという理由でサングラスをしていたのもまずかった。そして、彼は手に怪我をしていた。犯人は最初の警官との接触で手を撃たれていたのだ。
無線で「犯人」を路地に追い込んだとの連絡を受け、警官は現場に向かった。
「……だけど……。」
かつての通りすがりの男、ショーンは小さく笑ってもういいからと言うように首を横に振った。
「保険が下りて、むしろ楽になったかな。」
かつての優秀な警官、ヴィゴはその言葉にぎゅっと目を閉じた。慰めだとか、優しい言葉だとかは今の自分にふさわしくない。
「……ヴィゴ。」
ヴィゴはすぐに二番手として現場に向かい、少し離れたところから激昂して大きく手を広げて何事かを怒鳴っている男を注視していた。そして男が胸ポケットに手を入れようとしたときに、彼の、膝を撃った。そして、臑も。
彼の銃にはそれくらいの距離が出せたし、威力も十分に改造してあった。もちろん、普通に使う時は一般的に支給されている銃を使う。だけれど、その犯人は相当の人間を殺していたし、それもか弱い女性や子供ばかりだった。絶対に許せない、そう思って許可を取って持ち出していたのだ。
初歩的な、ミスだった。きちんと無線で確認を取っていれば良かった。声が聞こえるところまで近づいて判断すべきだった。支給された銃を使っていればここまでの結果、にならなかったろうし、下手をすれば死んでいたかもしれない。
足を抱えることも出来ず、痛みと衝撃に地面にのたうつ彼を見下ろしながら、どうして自分は普通に二本足で立っていられたのか、今でも不思議でならない。警官を長い間続け過ぎて、感覚が麻痺していたのかもしれない。
しかし、結局その後、何度も夢に見た。
どれだけうなされたか知らない。
なぜなら彼は、身分証明のパスポートを取り出そうとしていただけだったのだから。彼はイギリス人庭園デザイナーで、コンベンション参加のためにNYにやってきた、本当にただの通りすがりだったのだ。
「……だから、お別れだ。」
友人、となったのは彼の身の回りの世話をするため、それから自分の罪悪感を抑えるため。仕事も辞め、彼の故郷イギリスにやってきて、とんでもないタクシーもないような田舎で共に暮らすようになった。仕事は特段なかったが、警官時代、仕事しかしていなかったのである程度の預貯金があり、こんな田舎で金を使うことなど、滅多になかったからしばらくは問題ない、とも思っていた。
ショーンは一番最初に病院で謝罪したときにこう言った。事故だと思えばいい、気にするな、と。しかし一緒に暮らしはじめると、それは驚くほどに「傍若無人」な態度でヴィゴに接してきた。車を洗うのも掃除洗濯がそうだ。食事の支度、土を作る作業、苗を買いに行くときも荷物運びの役を請け負ったし、気に入らないことがあればすぐに顔に出していた。
それに従うことで、確かに罪悪感は軽くなっていったと言えるだろう。しかし、彼への反感を募らせることはなかった。
では、なぜ走って逃げようとしたかって?
その問いに答えるよりもまずヴィゴはショーンの言葉の真意を知る必要があった。まさか、の台詞だったからだ。
「……お別れだ、ヴィゴ。どこまで我が侭を言えばおまえがアメリカに帰るか、試したけど……。」
良い執事になれるんじゃないか?完璧だった。
そう、ショーンは言って、目を伏せた。薄く浮かべた微笑みは寂しげで、ヴィゴは胸が締め付けられる思いに、首を横に振ることしか出来なかった。
「なかなか、帰ってくれなかった。我慢強いな……。」
ショーンは小さく息をついて、続ける。
「俺は今まで通りだ。運動も得意じゃないし、田舎町だけに気心がしれてる仲間ばかりで、昔から食料品や雑貨は配達を頼んでいた。」
だから、おまえがいなくても問題ない。
「……俺は、俺の人生を過ごすから、おまえはおまえの人生を……生きなくちゃ駄目だ。」
こんなに汗をかいて、と指先が額の汗をぬぐい、髪を撫でた。ヴィゴは歯を食いしばって耐えた。どうして逃げだそうとしたのか、何のために家を飛び出したのか、理由を言うわけにはいかなかったから。
「だから、ここへは……きちんとお別れを言いに来ただけだ。」
荷物も持ってきたよ。駅まで送ろう。
「……だから、………嫌、だったんだ……。」
しかし、ヴィゴには耐えきることが出来なかった。寒くもないのに、熱くてたまらないのに、奥歯がカチカチと鳴って、全身が震えた。抱えきることが出来なかった、あまりにも大きな感情が色んなものを突き破って出てきてしまいそうだ。
「え……?」
ヴィゴは、目の前にあったショーンの手首を掴む。それはともすれば強すぎる力で、ショーンは小さく驚きの声をあげる。
「俺は……、あんたを……これ以上傷つけるのが怖くて……出てきた。……そのまま恨みに思われて、いたかった……!」
「はじめから恨んでなんかいない!」
ショーンはすぐに反論し、やっと顔を上げたヴィゴをにらみつける。お互いの視線が交錯し、しばらくの沈黙が流れた。
「じゃあ、これから恨めばいい……。」
ヴィゴは、小さく「神様……。」と呟き、ショーンの不安定な体を強くその腕に抱きしめ、驚きに半開きになった唇に、自分のそれを強く重ねた。
最悪の、ケースだ。
「ん……んんっ……!」
ショーンは驚きの声をあげたらしかったが、ヴィゴは離さなかった。それどころか、杖を蹴り飛ばし、彼の腕が自分にしがみつくしかない状況に追い込む。それから、角度や深さを変え、何度も、何度も唇を重ね、舌を吸い、頬を撫でさすり、腰を強く抱き寄せた。
「あんたを……愛してしまったから……逃げたかった……っ。」
はっ、はっ……と荒々しい呼吸が二つ。その中で、ヴィゴはどうにか言葉を紡いだ。
「そんな資格はないのに……それを伝えてしまいそうで、怖かった。」
足先に口付けてしまいたくなった。
命令口調に困ったな、と眉を寄せながらも頬にキスがしたかった。
草花の手入れをしている横顔の穏やかさに胸がどれだけときめいたか、言えるわけがないと思っていた。だから、ここ、にいてはいけない。どこか遠くに逃げなければ、いつか彼をこんな風に……傷つけてしまうだろうと思ったのだ。
せめてタクシーのある街なら、もっとスマートに出ていけたのに。
ここはとにかく、田舎だった。地の果てで思わず世界には二人きりなんじゃないか、と思ってしまえるほど静かな家で、長く共に過ごし過ぎた。
「ヴィゴ……ヴィゴ……?」
「いいんだ、ショーン……俺は……っ。」
ぴしゃり、と乾いた音が響いた。
ヴィゴは思わず頬に手を当て、ショーンはしてやった、という表情で彼を見返していた。
「そういう理由なら、行かないでくれ。」
「は?!」
「……未練がましく挨拶に来たのは、……俺の印象を良くしたかっただけだ。国へ帰って恨み言を言われるのが、怖かった。」
「そんなことするはずが……!」
ない、とは言えなかった。その自信がないからではなく、ショーンの表情に見とれてしまったから。柔らかく微笑み、それから少し潤んだ瞳、真っ赤に染めた頬。まるで、恋をしているような眼差しがこちらに向けられていた。
「おまえより、前に自覚があったからな……。わけもなく怒鳴りつけたりするのは、辛かったよ。」
「……慣れたものだと思ったけど。」
思わずジョークにしようとして、失敗する。腕に力がこもり、頬を擦り寄せてしまったから。
「仕事を探して、おまえが後悔なく……おまえらしく過ごせるなら、傍にいて欲しい。そうでないなら、出ていったほうがいい……。」
足枷になるくらいなら、これが最後でかまわない。
「馬鹿だな、ショーン……。」
逃げたかった。地球の裏側まで逃げてしまいたかった。
そうでないと、いつ動きの鈍い彼を床に磔にしてしまうかどうかわからないくらい、想いが高ぶっていたから。
二度、傷つけるくらいなら逃げてしまおう、その浅はかさを運命は笑い飛ばしてくれるらしい。誰も自分のことを知らない街で、静かに暮らそうだなんて、今時レトロな考えだったかもしれない。
でも、確かに走っているときは必死だったのだ。
彼を想う一心で、彼から逃げた。
「……俺が器用なことは……あんたが一番よく知ってるだろう?」
ヴィゴは少し顔を離して、正面からじっとショーンのことを見つめ、参ったな、と呟き笑った。ショーンが不服そうに頬をふくらませていたからと、どこか甘えるように彼の手が背中を掴んだからだ。
いい年をして、何をやってるんだかと呆れられそうな光景だが、ここに車が通る確率はとにかく低い。
「車買えよ。そうしたら、仕事もすぐ見つかるさ。」
「……だが……。」
ショーンは渋るヴィゴにいたずらっ子のように微笑んだ。
「料理はたぶん俺の方がうまい。」
「イギリス人なのに?」
思わず言い返したヴィゴにショーンは「もちろん。」と得意げに頷き、耳元で囁いた。
「愛情こめて作ってやるよ。」
そんな軽口に、ヴィゴは素早く身をかがめて杖を広いあげるとその勢いでショーンの体をひょい、と持ち上げた。
「わぁ……!」
「……本当にいいんだな。」
本当ならば、復讐されてもおかしくない間柄。きっと彼のご両親は一生自分を許さないだろう、とヴィゴは少しだけ寂しさを感じながらもぐっと堪える。
「ああ。」
「……そうか……その、なんだ……。」
幸せだな、と言う言葉はまだ胸に宿る罪悪感から小声になったがショーンの耳にはしっかりと届いていた。だから、俺もだ、ともう一度耳元に囁いた。
「でも、気付いてなかったんだな。」
そして、少し驚いたように続けた。
「何が?」
「……おまえがソファでうたた寝をしているとき、俺はよく……。」
落とすなよ、と一度警告を出した後。
「キスしていたんだよ。」
ショーンはそう言って、晴れやかに笑った。 ヴィゴは警告なければ危うかったが、沸き上がる感動を抑えきれず、ショーンを抱えたまま車までの道を一気に走り出した。
「わ、わあ……!ヴィゴ、ちょっと待て!揺れる!」
「うるさい、あんたが悪い!」
ショーンの抗議はやがて笑い声に変わる。かわいいだけの車に乗り込んだら、ドライブをしながら帰ろう。
少し汗が引いたら、はじめから彼への想いを整理しながら伝えよう。
「あんたくれたキスの何倍もキスするつもりだ。」
ショーンは「Sure」と上品に答えると、ヴィゴのジーンズのポケットからパスポートを引き抜いて、にっこり笑った。
「これは、俺が預かっておく。」
「……ナイスアイデア。」
今まで見なかった顔、というか、わがままにうまく隠していた彼の素顔が次々と現れてヴィゴは幸福感に目が回りそうになりながら、助手席に座る。足が窮屈だけれど、悪くない。
ああ、何て距離を走ってきたのだろう。
車でだって時間がかかりそうだ。
その距離をショーンがどんな気持ちでハンドルを握っていたのかを考えると、愛しさがこみあげてくる。だけれど、今は運転中だから大人しくしていよう。おしゃべりだけだ。
ショーンは俺の延々と続きそうな話を、ずっと聞いてくれていた。
牛の横断に車が止まった時にはキスをした。
これが夢の中の出来事でないことを神に祈りながら、ヴィゴは何度も何度も、愛している、を伝え続けた。
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映像、のイメージで書き出したら若干意味不明なお話に……(汗)
脳内では、フランス映画風に仕上がってるんですけどねえ。
あれー?
あ、すみません…、また怪我……。
それほど映画で怪我してないかなーと思いつつも
他の俳優さんとかと比較すると(アクション俳優除く)
多いほうですよね……。
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